<官能の裸婦> 古沢岩美
裸婦に官能はつきものである。ボッティチェルリに「ヴィーナスの誕生」という作品がある。この作品は「天国のヴィーナス」といわれ、通常は官能性が否定されるといわれている。だが、わたしはこの作品にも官能性を感じるのである。
それならば、「自然のヴィーナス」の代表的な画家といえるルノアールの一連の裸婦に官能を感じないわけがない。それでもルノアールの裸婦を淫らだと悪罵を浴びせる人はいない。ところがわが国の古沢岩美の裸婦となると、芸術の域を超えているという人たちの声が聞こえてくるようである。それほどまでに古沢の描く裸婦は官能性に満ち溢れているのだ。
その源泉はどこにあるのであろうか。ひとことでいってしまうとモデルとの人間関係にあるということになる。もともと女がヌードになるのは愛する人のためなのだ。これほど説得力ある論理はない。だから、古沢はヌードになれきった女性は裸婦のモデルとしてはふさわしくないといっている。
もとよりルノアールの裸婦も魅力に満ちている。だが、そこにはモデルの意思は反映されてはいない。モデルはルノアールに愛撫されるだけの存在にすぎないのである。ところが古沢岩美の描く裸婦となると、モデル自身が羞恥心をかなぐり捨てて、みずからの意思で演技をしているのである。
「ボクはヌードになったばかりの、猫をかぶったようなときは描きたくはないのです。スケッチをかまえて三十分も待っていると、どんなモデルでもうごきはじめますよ。いままでのすましきった化けの皮をぬぎすててかくしていた女の本質をはじらいなく見せてくれます。かくしていた秘所を見せびらかして、獣として挑んできます。そこまでいかないと、描かないのですよ」
岩沢は上記のように創作の原点を種明かししている。わたしはこの一文を読んで心底から納得をした。そうでなければ、あんなリアリティーに富んだ官能性が表現できるはずがないのである。わたしの脳裏にはいまでも色彩が鮮やかで、からだ全体に官能性をみなぎらせている岩沢の描く裸婦たちがどかりといすわっている。岩沢の描く裸婦はいっぺん目にしたら忘れられない作品ばかりである。
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