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2007年10月

<生命賛歌の裸婦> 宮本三郎

 宮本三郎は「写実の画家」であると同時に「色彩の画家」でもあった。
 宮本の画集をめくると左右に裸婦があらわれる。左側の裸婦は「青い敷物」と題された作品である。これに対して、右側の裸婦は「裸婦達に捧ぐ」と題された作品である。

 このふたつの作品を一瞥するだけで宮本三郎が写実の画家であると同時に色彩の画家であることがわかる。「青い敷物」は血色のよい豊かな肢体を画面の中央においてそのまわりを青の色彩で埋めているが、写実性に優れている作品である。

 「裸婦達に捧ぐ」は深紅の色に埋まるようにして、ふたりの裸婦が寝ころがっている。その姿はいかにものびのびとしている。そのうえ、裸婦のまわりには色とりどりの花が惜しみなくまき散らされている。まさに色彩の豊かな作品なのである。

 宮本が「青い敷物」から三十三年あとに描いたのが「裸婦達に捧ぐ」である。その間に宮本三郎は写実の画家から色彩の画家に変容したといってもおかしくないような変わりぶりである。

 次のページをめくると、おなじように左右対象の裸婦があらわれる。左側が「裸女結髪」という作品であるのに対して、左側が「鏡の前」という作品である。ふたつの作品に共通しているところは、鏡の前で身づくろいをしているところである。

 「裸女結髪」では、若い女性が部屋の一隅に座り込んで髪を結っているところが描かれている。そのふくよかな肉体はいかにも健康そのものであるが、その描かれ方はみるからに写実的である。

 これに対して、「鏡の前」では、ひとりの裸婦が大きな鏡に全身をうつして化粧をしているところが描かれている。ルノワールの裸婦をおもわせるように色彩が鮮やかであるが、描かれ方はタッチがあらくて、ボナールの作品をおもい起こさせる。

 次からのページでは写実性が消えて色彩のゆたかな裸婦たちばかりがあらわれてくる。線描のリアリストとまでいわれた宮本三郎が色彩画家に豹変したかのような錯覚さえ起こす作品ばかりである。

 昭和三十年代は国際的にみても抽象画の波が荒れ狂った時代であったといわれている。このような時代背景にあって、宮本も写実を捨てて抽象画に近い作品を描きはじめたことがある。でも、それは一時的な心の迷いであったようである。

 宮本はそこから抜け出る方法をあらたな裸婦に求めたのである。宮本の絵画のテーマは「生命賛美」である。それが現実のものとなった背景には、西洋の神話や聖書が裸婦と結びつくことがわかったからである。

「裸婦を線やボリュームや肌色の美しさばかりでなしに、もっと人間的な、恋情や慕情の対象としての、あの素晴らしさが描きたい」宮本はこのような念願のうえに、さらに、
「もっと素直に感情を歌いあげたい」と、切望するようになっていった。

 このような願望のもとに宮本が精魂を込めて描きあげた作品が晩年の裸婦シリーズである。すなわち、新約聖書から題材をとった「SAROME」であったり、ギリシャ神話にもとづいた「レ・トロワ・グラース」だったり、「VENUS ANADYOMENE」という作品だったりする。

 いずれの作品も色彩があざやかで生命の賛歌を髣髴とさせる作品ばかりであるが、宮本にはこのほかに「仮眠」という作品がある。ひとりの全裸の若い女性が花と人形にとりかこまれて横たわりながらまどろんでいるところが描かれている。

 裸婦の美を求めつづけて来た宮本三郎の絶筆として知られている名作である。フォルムの変化といい、肌の陰影といい、まわりにちりばめられている人形たちの瞳といい、この作品からうける印象は「生命の賛歌」以外のなにものでもない。

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<官能の裸婦> 古沢岩美

 裸婦に官能はつきものである。ボッティチェルリに「ヴィーナスの誕生」という作品がある。この作品は「天国のヴィーナス」といわれ、通常は官能性が否定されるといわれている。だが、わたしはこの作品にも官能性を感じるのである。

 それならば、「自然のヴィーナス」の代表的な画家といえるルノアールの一連の裸婦に官能を感じないわけがない。それでもルノアールの裸婦を淫らだと悪罵を浴びせる人はいない。ところがわが国の古沢岩美の裸婦となると、芸術の域を超えているという人たちの声が聞こえてくるようである。それほどまでに古沢の描く裸婦は官能性に満ち溢れているのだ。

 その源泉はどこにあるのであろうか。ひとことでいってしまうとモデルとの人間関係にあるということになる。もともと女がヌードになるのは愛する人のためなのだ。これほど説得力ある論理はない。だから、古沢はヌードになれきった女性は裸婦のモデルとしてはふさわしくないといっている。

 もとよりルノアールの裸婦も魅力に満ちている。だが、そこにはモデルの意思は反映されてはいない。モデルはルノアールに愛撫されるだけの存在にすぎないのである。ところが古沢岩美の描く裸婦となると、モデル自身が羞恥心をかなぐり捨てて、みずからの意思で演技をしているのである。

「ボクはヌードになったばかりの、猫をかぶったようなときは描きたくはないのです。スケッチをかまえて三十分も待っていると、どんなモデルでもうごきはじめますよ。いままでのすましきった化けの皮をぬぎすててかくしていた女の本質をはじらいなく見せてくれます。かくしていた秘所を見せびらかして、獣として挑んできます。そこまでいかないと、描かないのですよ」

 岩沢は上記のように創作の原点を種明かししている。わたしはこの一文を読んで心底から納得をした。そうでなければ、あんなリアリティーに富んだ官能性が表現できるはずがないのである。わたしの脳裏にはいまでも色彩が鮮やかで、からだ全体に官能性をみなぎらせている岩沢の描く裸婦たちがどかりといすわっている。岩沢の描く裸婦はいっぺん目にしたら忘れられない作品ばかりである。

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<黒猫のいる裸婦> 弦田英太郎

 裸婦に猫が描かれている作品となると、まずマネの「オランピア」に黒猫が登場している。日本人の作品では藤田嗣治の「五人の裸婦」や「タピスリーの裸婦」などにも猫が描かれている。どうも裸婦と猫とは相性がいいようで弦田英太郎の「黒猫のいる裸婦」にも文字通り黒猫が登場している。

 弦田画伯の描く裸婦はいずれも美人であり、容姿もすらりとしている。そのなかでもこの「黒猫のいる裸婦」はひときわ美しく描かれている。肩まで垂れ下がった長髪、きらりとひかっている瞳、筋の通った鼻、それにセクシーな唇が添えられて申し分のない美人の容貌である。

それにすらりとして、しかも瑞々しい肉体をおしげもなく横たえているのである。それでいてどこか奥ゆかしいところがある。それに一役かっているのが黒猫のような気がする。ここまでくると、たんなる裸婦ではなく立派なひとつの芸術作品といえる。

 弦田画伯にいわせると、裸婦の美しさは芸術の大きな源泉であるという。だが、それだけにあらゆる芸術のなかでもっとも困難な題材のひとつであるともいっている。この作品のなかでも弦田画伯は十分に自らの告白を立証しているようにおもわれる。

 すなわち、みずみずしいまでの肌、裸婦が醸し出す魅力的な風情、うるおいのなかにあるしっとりとしたかげり、それらがあいまってひとりの生きた裸婦が描かれているのである。

 これだけの裸婦が描けるようになるには、それこそひたむきに精進をかさねるほかに道はないのであろう。弦田画伯にとっては生涯が修行なのである。もとより、その意味では、この「猫のいる裸婦」もそのなかの一里塚であったのかもしれない。

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