<鍵穴からのぞく裸婦> ドガ
ドガといえば、バレーやダンスを踊る踊り子たちの瞬間の動作をとらえた「踊り子」という作品を想起される人たちが多いのではなかろうか。ドガがめざした絵の試みは運動する人体をとらえることによって生活空間のなかに息吹を生み出すことであったのだ。
その代表作が一連の踊り子を主題とした作品である。踊り子たちが足をあげて、ふりむく傾いた姿勢はいかにも不安定のようにおもわれる。しかし、その動作は次のステップにうつっていくための空間があたえられることによって、安定に向かっていくのである。ドガは不安定な姿勢に見えてもしっかりとした構造性をもっている絶妙なバランスの妙技を絵画のなかに持ち込んだのだ。
わたしはドガの「踊り子」をみるたびにそれらの作品の革新性に驚かざるを得ないのである。「踊り子」はまさにリズムと諧調、形態の多様性の宝庫なのである。人体の動きといえば、古典的な素材でもあるが、ドガはその人体の動きをとおして、形の秘密に迫り、その形がたえまなくよみがえってくる可能性を追い求めたのである。
ドガも絵画史のなかでは印象派の画家といわれている。しかし、ドガはモネやシスレーのように戸外へ出かけて、自然の光の刻一刻の変化に興味を示すことはなかった。彼はもっぱら室内の安定した光のなかで、人物の瞬間の動きをとらえることによってあたらしい絵画の可能性を追求したのである。それは光の革新性を追及したモネたちの絵画におとらず後世に大きな影響をあたえることになったのである。
そのドガも多くの裸婦を描いている。ご多聞にもれずドガの描く裸婦はすべてが動きのある絵柄で占められている。たとえば、「浴槽に入る女」という作品では文字通り浴槽に入ろうとしている女のうしろ姿が描かれている。「盥の中で首をスポンジで洗う女」でも、「盥を洗う女」でも、ずばりそのままの女が描かれている。そらに「ソファで髪を梳いてもらう女」にしても、「化粧着を羽織る女」にしても解釈の余地のない女性が描かれているのだ。
裸婦といえば、あらかじめ見る人を意識して描かれるのが常道である。だが、ドガの描く裸婦は見る人を意識することなく日常生活のなかで行なう女たちの自然の動作を描いているのである。女たちが衣服を身につけているならば、だれでも日常目にすることができる動作であるが、彼女たちは裸なのである。ドガの裸婦をみるたびにわたしは鍵穴から彼女たちをのぞいているような錯覚に陥るのだ。そこにドガの裸婦の醍醐味があるのかもしれない。
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