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2007年7月

<鍵穴からのぞく裸婦> ドガ

 ドガといえば、バレーやダンスを踊る踊り子たちの瞬間の動作をとらえた「踊り子」という作品を想起される人たちが多いのではなかろうか。ドガがめざした絵の試みは運動する人体をとらえることによって生活空間のなかに息吹を生み出すことであったのだ。

 その代表作が一連の踊り子を主題とした作品である。踊り子たちが足をあげて、ふりむく傾いた姿勢はいかにも不安定のようにおもわれる。しかし、その動作は次のステップにうつっていくための空間があたえられることによって、安定に向かっていくのである。ドガは不安定な姿勢に見えてもしっかりとした構造性をもっている絶妙なバランスの妙技を絵画のなかに持ち込んだのだ。

 わたしはドガの「踊り子」をみるたびにそれらの作品の革新性に驚かざるを得ないのである。「踊り子」はまさにリズムと諧調、形態の多様性の宝庫なのである。人体の動きといえば、古典的な素材でもあるが、ドガはその人体の動きをとおして、形の秘密に迫り、その形がたえまなくよみがえってくる可能性を追い求めたのである。

 ドガも絵画史のなかでは印象派の画家といわれている。しかし、ドガはモネやシスレーのように戸外へ出かけて、自然の光の刻一刻の変化に興味を示すことはなかった。彼はもっぱら室内の安定した光のなかで、人物の瞬間の動きをとらえることによってあたらしい絵画の可能性を追求したのである。それは光の革新性を追及したモネたちの絵画におとらず後世に大きな影響をあたえることになったのである。

 そのドガも多くの裸婦を描いている。ご多聞にもれずドガの描く裸婦はすべてが動きのある絵柄で占められている。たとえば、「浴槽に入る女」という作品では文字通り浴槽に入ろうとしている女のうしろ姿が描かれている。「盥の中で首をスポンジで洗う女」でも、「盥を洗う女」でも、ずばりそのままの女が描かれている。そらに「ソファで髪を梳いてもらう女」にしても、「化粧着を羽織る女」にしても解釈の余地のない女性が描かれているのだ。

 裸婦といえば、あらかじめ見る人を意識して描かれるのが常道である。だが、ドガの描く裸婦は見る人を意識することなく日常生活のなかで行なう女たちの自然の動作を描いているのである。女たちが衣服を身につけているならば、だれでも日常目にすることができる動作であるが、彼女たちは裸なのである。ドガの裸婦をみるたびにわたしは鍵穴から彼女たちをのぞいているような錯覚に陥るのだ。そこにドガの裸婦の醍醐味があるのかもしれない。

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<腕をひろげて横たわる裸婦> モディリアーニ

 わたしは竹久夢二の描く美人画が大好きである。その夢二の描く美人から衣服をとると、モディリアーニの描く裸婦になるような気がする。それほどまでにモディリアーニの描く裸婦はなんともいえない官能性をたたえているのである。

 その証拠となるエピソードがひとつのこされている。モディリアーニは生涯で一度だけ個展をひらいたことがある。ところはベルト・ウェイルというパリの画廊であるが、たまたまこの画廊の前が警察署であったのがモディリアーニにとって不運だったのだ。

 このときにショーウインドーに展示された裸婦があまりにも官能的であったのでそれをみるためにくろやまの人だかりができたという。そのさわぎをかぎつけて警察官があらわれて、せっかくの個展が「公序良俗」に反するという汚名をきせられて即刻中止の憂き目にあったのである。

 モディリアーニの裸婦には坐る裸婦と横たわる裸婦の両方がある。わたしはそのうちのどちらとも好きであるが、強いて好きな方をあげろといわれれば横たわる裸婦をあげる。横たわる裸婦のなかでどの裸婦がいちばん好きかと問われれば、「腕を広げて横たわる裸婦」であるとこたえる。

 なぜかと問われればいちばん官能性に富んでいるからであると躊躇なくこたえる。モディリアーニの裸婦は冒頭に述べたようにのっぺりとした顔に特徴がある。それに暖かみのある肌をしているところも特徴のひとつである。もうひとつあげるならば、手や腕や足の一部が額縁で切られているところである。それらが渾然一体となってあのような色気を漂わせているのである。

 モディリアーニの芸術の最大の特徴は色彩的というよりも線描的なところにある。もとより裸婦もその例外ではない。裸婦をかたちどっている線は起伏に富んで流れるようなリズム感に満ちている。そして、そのリズム感は感覚的でかつ官能性に富み、地中海的でルネッサンスの響きさえ感じさせる。それは彼がイタリア人であるからにほかならない。

 それにもまして、モディリアーニの芸術の根底に流れているものは彼がユダヤ人であることからくる悲哀感、孤独感であるとの説があるが、大いにうなずけるところがある。それがなければおなじ官能性にしても、多くの人の心をとらえてはなさない裸婦にはなりえるはずがない。

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<水浴図> セザンヌ

 久しぶりにセザンヌの画集をひらくと、そのなかのひとつひとつの作品があらたな息吹をともなって迫ってくる。
――セザンヌほど立派な画家はいない。
 これが彼の画集を閉じたときのわたしの実感である。

  事実、セザンヌほど20世紀の美術に影響を与えた画家はいないといわれている。それが彼の画集をひらくことによって実感として感じられるのである。それならば、どういう意味で偉大なのであろうか。それにはふたつの要素がある。形と色彩である。
 
 まず、形はどうであろうか。この点では、なによりも、セザンヌの作品をみれば、一目瞭然である。彼の代表作のひとつに「温室のなかのセザンヌ夫人」という作品がある。一見してわかることは「風変わりな絵」だということである。

 この風変わりな絵も仔細に観察すると大変大きな意味をもっているのである。まず、頭部はあきらかに卵形を意識して描かれている。おなじように、胴体はいわゆる円錐のうえにしっかりと据えられている。さらには、首や両腕に目をうつすと、それらはあきらかに円筒をおもい起こさせるのだ。

 セザンヌが絵のなかで追求したものは、描こうとする目のまえ画題が本質的にどのような構造をもっているかということである。セザンヌは印象派の先覚者であるモネたちが光の反射や大気の振動に固執するあまり、画面から形態と構図を見失ってしまったことに不満を感じていたのである。感じていたばかりか、セザンヌは一貫して絵画の造形性にこだわりつづけて、独自の形態を編み出したのである。

 その記念すべき作品が「温室のなかのセザンヌ夫人」なのだ。彼の努力の成果がのちのピカソなどによるキュビズムに結びついたのである。この意味だけでも、セザンヌはあきらかに20世紀の芸術の先導役をはたしたといえるのである。

 それだけでも偉大なのに、セザンヌの天才性はそれだけにとどまらない。これも彼の作品をみるとあきらかである。すなわち、ゼザンヌにはもう一枚夫人を描いた有名な作品がある。「赤い肘掛椅子のセザンヌ夫人」である。この作品には陰影がほどこされていない。しかし、よみみると陰影がほどこされているのである。

 従来とはちがった手法で陰影を施しているのだ。それはこの作品の顔の部分をみるとはっきりとわかる。膨らんでいる部分は赤色がかった色彩で、引っ込んでいる部分は青の色彩をもちいることによって顔の立体感を出しているのである。セザンヌは印象派の先達が編み出した色彩の用い方をさらにひとつ発展させていたのである。

 もうひとつセザンヌの作品をみていて気づいたことは、絵柄が多岐にわたっていることである。もとより、彼の風景画はつとに有名である。同時に肖像画をはじめとして人物画においても後世に名を残すような作品を数多く残している。それならば裸婦はどうかというとこれもセザンヌならではの裸婦が画集のなかにもおさめられている。

 具体的には、「水浴図」と別称されている一連の群像裸婦である。いずれの作品も木々の生い茂る泉のなかで全裸の何人かの女性たちが日光浴か水遊びに興じているところを描いたものである。作品の主題は「人体と風景との調和」のようであるが、想像されるものからみられるものへという近代絵画の傾向に逆らうように、いずれもセザンヌが頭のなかで創造した作品である。ここにも当時の風潮には染まらないセザンヌの進取の気性があらわれているようである。

 だが、色彩だけはあきらかに印象派の影響を色濃く残している。そのなかのひとつに「
三人の浴女たち」という作品があるがこれなどは裸婦をはじめ画面全体があざやかな色彩で彩られている。そのせいかこの作品は例のマチィスが自らの絵画の参考にするために個人的に所有していたといわれている。

 画集のなかには、このほかにも、いくつかの「水浴の女たち」とか、二枚の「大水浴」という作品が掲載されている。このなかで、わたしはフィラデルフィア美術館が所有している「大水浴」という作品に魅かれる。画面の左右には、太い樹木がどっしりと描かれており、その樹木のなかに多くの全裸の女性たちが配置されている。彼女たちはおおまかに左右にわかれているが、それぞれピラピッド形を構成している。

 この作品は晩年のセザンヌが7年の歳月をかけて完成させたといわれるだけあって、構成の雄大さといい、色彩の鮮やかさといい、まさにセザンヌ芸術のひとつの到達点をみるようなおもいにかられる。 


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<思春期> ムンク

 多くの絵画はわれわれに安らぎをあたえてくれる。わたしもこれまでに多くの絵画によって安らぎを与えられてきた。だが、まれには不安にかられる作品がある。ムンクの作品がその典型例といえよう。

 ムンクの絵画のなかで、だれもが不安をあおられる作品といえば、例の「叫び」であろう。そこまではいかないにしても、みるものに独特な不安を抱かせる作品が「思春期」である。

 ひとりの裸の少女がベッドの縁に腰をおろしている。髪を大きくうしろに垂らして、両手を膝のあいだにはさんで、じっと前方を目つめている。そのまなざしはいかにも不安げである。というよりも、なにかにおびえているような感じさえうけるのだ。

 顔だけをみると、あきらかに少女の名残りがのこっている。だが、からだをみると、やせてはいるものの、すでに一人前の女性の域に達している。その彼女の背後の壁には不吉な魔物のような影がゆらめいている。

 なにか不安のうわのりをしているようである。この影がなくとも、彼女の表情だけからも必死になって不安をとおりこして、なにかにおびえていることがわかる。彼女はいったいなににおびえているのであろうか。

 それを解くカギは彼女の顔とからだにあるといえよう。彼女の胸や腰をみるとわかるように、からだはすでに大人の仲間入りをしている。それにくらべて、まだ彼女の顔は乙女の名残りをのこしているのである。

 一言でいえば、彼女は子どもから大人になりかけている。いままでとはちがった未知に世界に足を踏み入れようとしている。それは彼女が生まれてはじめて経験することなのである。その不安が彼女をおびえさせているのだ。

 少女が成長して一人前の女性になることはどのような女性でも経験することである。だが、そこに不安を感じる度合いは人によりまちまちであろう。ムンクの場合は感受性が人一倍強く、普通の人間ならば、さして不安にならないことも、不安に感じたのである。

 その証拠があの「叫び」の表情であり、表題の「思春期」の表情なのである。そのムンクの不安をつきつめていけば、生命そのものに対する不安にゆきつく。この作品を描いたころのムンクは生命の不安にとりつかれていたという。そんなムンクだからこそ、このような傑作を世におくることができたのである。


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