<醜の美> ルオー
「ルオーはなぜこんな醜い裸婦を描いたのであろうか」
これがルオーの「鏡の前の娼婦」という作品を見たときのわたしの偽らざる心境である。両手を頭のうえまであげて髪の手入れをしているらしい姿が描かれている。もちろん娼婦は全裸である。髪には赤い飾り物がほどこしてある。その娼婦の姿が鏡にも映っているのである。
本物の娼婦も見たからに醜く描かれているのに、その醜い裸の女をまた鏡に写させているのである。わたしはおもむろにルオーの画集のつぎのページをめくってみる。「娼婦」という作品である。そこにも顔をそむけたくなるような裸婦が描かれている。
こちらも顔が醜いばかりか、からだがぶよぶよでおなじ娼婦でも身を売りつくしてもなお生活のために身を売っている娼婦を髣髴とさせるような裸婦なのである。ここでも、わたしはなぜルオーはこのような裸婦を描きつづけたのか、という疑問にとらわれた。
わたしは解説を読みすすんでいくうちに、「醜の美」ということばに目がとまった。
――これによると、ルオーはできるだけ醜く描くことによって美を具現しようとしたのではないか。
わたしのひらめきは少しは的を射ていたようである。
ルオーにとって芸術とは、表現することにあるのだ。それも醜いもの、恐ろしいもの、苦悩するものを表現することなのだ。どのような醜いものでも、どのような悲劇的なものでも、自分の描いた絵を鑑賞するものたちが、心を動かせば、ルオーにとってはそれだけで美しいものになるのだ。
――ルオーは女の乳房をつぶし、腹を裂き、足をねじり、顔を凹凸にし、それらすべての上に、あらゆる血の赤とあらゆる腐った緑とでできた毒を含んだ色彩を塗りたくった。
ルオーの裸婦はこのようにむごい批評もされた。だが、それはルオーが描いた裸婦を見れば的はずれでもなく、見た者の実感でもある。
そんな批評にもルオーはめげることがなかったであろう。なぜならば、ルオーは確固とした信念のもとに作品に挑戦していたからである。要するに、ルオーが表現しようとしたものは、娼婦たちに対する憎悪ではなく、醜悪な人間社会の底辺のなかで、生贄となってしか生きてはいけない人たちにたいする熱い同情心だったのだ。
ルオーは信仰心の厚いクリスチャンであったのだ。
――娼婦はいちばん先に神の国を知るであろう。
娼婦を描くときのルオーの頭のなかには、このような聖句が浮かんでいたのかもしれない。ルオーにとっても娼婦はまた天使であったのであろう。それをできるだけ醜く描くことによって表現したのであろう。
よろしかったらお願いします。
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