<金髪の水浴の女> ルノワール
“ルノアールの女”とは、はたしてどのような女であろうか? “豊満な柔肌の美女”、これこそがルノアールの女なのである。表題の「金髪の水浴の女」はまさにこの代名詞がぴったりとあてはまる作品といえる。水浴のあとで、金髪で豊満な柔肌の美女がソファに腰をおろして、バスタオルで足をふいている。そんな情景が独特なタッチときらびやかな色彩とで描かれている作品である。
ルノアールは1880年代からこのような浴女を好んで描いている。この作品はそのうちの代表作のひとつであるが、いかにもルノアールらしい作品である。この作品をはじめて目にしたわたしは四肢のゆたかさとプロポーションのすばらしさに圧倒されるおもいであった。だが、それでいて、エロチックな感じを受けないのである。もとより、官能のひびきはつたわってくるものの、それを超越したなにかがこの作品のなかには秘められているのだ。
まず、わたしの目を入ったのはイメージのあかるさである。画面全体はぼっとした雰囲気におおわれているのであるが、それでいて、色調があかるく、滑らかでふわふわとした感触の肌が赤色を基調とした色彩につつまれているのだ。そこにわたしが見たものは若くてうららかな健康このうえない裸婦なのである。
ルノアールは晩年に至るまで、裸婦のとりこであった。その証拠に彼は生涯を通じて数多くの女性を描いているが、その大半が裸婦であったのだ。それでいて、ルノアールはいわゆるドンファンでもなければ、女好きでもない。多くのモデルにとりかこまれながらも、愛人といわれる女性は何人もいなかったそうである。彼にとって、この世の中で女の裸体にまさる美は存在しなかったのである。「わたしは女がいなかったら、絵描きになんかならなかった」とルノアールは告白している。彼は裸婦を描くことが好きでたまらなかったのだ。
ルノアールは引っ込み思案で、自らを語ることは好まなかった。だから、いわゆる言行録のようなものは残ってはいないけれど、前文の告白からして、ルノアールにとっては、女は生涯にわたって美の対象であったばかりか、崇敬の対象であったことだけはまちがいがない。それはどこから来ているのであろうか。ルノアールは家庭的な女が好きであった。ここにひとつのヒントがあるようだ。恋人と母親を兼ね備えた女性にあこがれていたのである。ルノアールはそれを裸婦のなかで追求していったのだ。
「ボクはモデルなしでは裸婦は描けないけれど、そのモデルを忘れることを心がけている」とルノアールはいっている。モデルは必要であるが、製作の過程ではモデルにとらわれることなく、自分だけの裸婦を描いているのである。それを描かせたのは心の片隅に住んでいる守護神であろう。その守護神こそが恋人であり、母親であったにちがいない。
わたしはあらためて「金髪の水浴の女」を見つめてみる。まるで夢のなかの裸婦を見ているような心境になっていく。はたして、この裸婦が嫌いだという人がいるだろうか。わたしはそんな気持ちになる。ルノアールの裸婦は好き嫌いを超越しているようにおもわれて仕方がない。
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