わたしは朝食をすませると、二階のアトリエにあがった。画業を生業として四十年になるが、わかいときとちがって、還暦をむかえたいまでは、わりあい規則ただしい生活をしている。所用がないかぎり、わたしは朝からアトリエにこもって絵を描くことに専念する。きょうは描きかけの自画像を仕上げてしまうつもりでいる。
 わたしはテーブルのうえに新聞をひろげた。キャンバスにむかうまえに、朝刊に目をとおすのがならわしになっている。わたしは新聞をめくって、社会面に目をおとした。詐欺事件が大きく報道されている。老人をねらった金銭にまつわる詐欺事件が頻発しているという。手口も巧妙になっているらしい。わたしは事件の詳細をつたえる新聞記事をよみすすめた。
 その記事をよみおわったわたしは、紙面の左側に目をうつした。大月澄子画伯死去という見出しが目に入った。わたしは夢中になって記事をおった。独自の画風をきづいて数多くの名作をのこした大月澄子画伯が肺炎のため東京都内の病院で死去した。六十歳であった、と記されている。
 わたしの胸はこれまでになく高鳴った。この年齢になると、いろいろな人の死に遭遇してきている。こころざし半ばで世を去っていく人もいる。わたしはそのたびに人の世のはかなさを実感してきた。だが、今回のような衝撃にうたれたことはない。
 わたしは椅子に腰をおろしたまま、頭をたれていた。ずいぶんながいあいだそのままでいたが、そのうちに彼女の代表作のいくつかが脳裏をかすめた。いずれも名作のほまれたかい作品である。そのなかの一枚だけがわたしの頭にのこった。
 わたしはおもい腰をあげて、アトリエの一角に設置されている書棚までいくと、一冊の画集をとりだした。そして、もとの椅子に坐りなおすと、テーブルのうえにその画集をおいた。
 「大月澄子の軌跡」というタイトルが目に入った。この画集をみれば、大月画伯の四十年にわたる画業の足跡がわかる構成になっている。
 わたしはおもむろにページをめくりはじめる。一枚の作品のもとでわたしの目はとまった。掲載されている作品とわたしの頭のなかにのこっている作品とがかさなりあった。
 まれにみる美人画である。だが、ただの美人画ではない。わたしはその美人画に目をこらした。鼻筋のとおった美女がかすかに目をとじかけている。顔色が青白い。ことのほかおもいつめた顔つきをしている。身にまとっている着物は赤い炎をイメージした和服である。それが異様な光彩をはなっている。全体像からは、嫉妬に身を焦がしている美人の姿だということがわかる。
 わたしはこれまでにも何回となく「炎の女」と題されたこの作品を目にしてきた。そのたびに悔恨の情にかられた。

 画伯との出会いがおもい起こされる。
 わたしと彼女とは美術学校の同級生である。おたがいに日本画をこころざして、おなじ先生の指導をうけていた。だが、彼女は友だちづきあいもせずにひとりでコツコツと努力するタイプの学生であったので、わたしたちと会話をかわすことはまれであった。
 わたしはいちどだけ彼女をお茶にさそったことがある。
「用事があるのよ」
 彼女は素っ気ないことばをのこして、足早に立ちさっていった。
 そんなわたしたちが親密な関係になったのは、授業の一環として速水(はやみ)御舟(ぎょしゅう)展をみたことからである。
 そのときの会場の情景がおもい起こされる。
 会場には御舟の作品が作成の年代順に展示されている。わたしたちはその順序にしたがって、観賞していく。ひとつの作品にあまり時間をかけることはない。ひととおり目をとおすと、つぎの作品のもとへ足をすすめる。わたしがなんとなくまわりをみわたしてみると、彼女の姿がない。みおわった作品の方向に目をむけてみると、彼女が真剣なまなざしをして、御舟の作品に見入っている。ふしんにおもったわたしは彼女のもとへひき返してみた。彼女が目をこらしているのは、御舟の代表作のひとつである「京の舞子」である。
「だいぶ気に入ったようようじゃないの」
 わたしは気軽に声をかけた。
「こんな絵はいままでだれも描いたことはないわよね」
 彼女は目をかがやかせながらいった。
 わたしはそれまでに御舟の代表作はひととおり目にしていた。「京の舞子」は御舟が新境地をひらいた作品である。だが、わたしはこの作品が好きになれなかった。
 それまでにみたことがある舞子を題材とした作品が頭をよぎった。いずれの作品もきらびやかな和服を身にまとい、髪を結い、簪をさし、顔には舞子特有の化粧がほどこされている。まるで美の化身のようである。
 わたしは彼女が目をこらしている「京の舞子」をみつめなおした。一見しただけで嫌悪感にかられる。おなじ和服や帯を身にまとっていても、色彩がはなやかではない。それよりも、容貌が故意に醜く描かれているとしかおもえないのだ。
「これじゃ舞子さんがかわいそうだよ」
 わたしは御舟の作品に目をむけながらいった。
「そんなことはないわ。きれいなものだけを描くのが画家ではないのよ。そんなのはうわべだけの美しさにすぎないわ。むなしいだけよ。御舟はそんなことで満足するようなひとではなかったのよ」
 わたしのひとことに彼女は反駁のことばをつらねた。まるで別人のようである。わたしは反論のことばがなかった。
「伝統を壊していかなくては、あたらしい美の創造なんてありえないわ」
 彼女は熱っぽくうったえた。
 そのときの彼女のあついまなざしがよみがえってくる。
「その点ではボクだっておなじだよ。破壊と創造という点では、速水御舟は尊敬にあたいする人物かもしれないよ」
 わたしは彼女に同調した。
「そうよ、御舟は自分の絵のためならば、どんな非難や中傷にもめげないひとであったのよ」
「そういえば、御舟はこの絵をおおやけにしたときに、みずからが属していた日本美術院を除名されそうになったというじゃないか」
「横山大観の逆鱗にふれたのよ。美術院の会員が描く絵じゃないって……。でも、御舟はそれにもめげなかったわ。残念なことに四十のわかさでなくなってしまったから、作品の数はすくないけれど、生涯にわたって美の求道者だったのよ」
「その意味では、御舟に学ぶべきことがあるようだな」
「いっぱいあるわよ。わたしは御舟の作品を模写しようとおもっているの」
「それはいい考えだね。オレもやってみたいな」
「いっしょにやってもいいわよ」
 彼女はこころよくわたしの申し出を聞き入れてくれた。
 わたしたちは図書館から大きめの御舟の画集をかりてきて模写をはじめた。
 彼女が好んで模写したのが京の舞子である。わたしも彼女の感化をうけて模写に挑戦したことがある。
 御舟の京の舞子は細密描写でできあがっている。髪の毛の一本一本、畳の目のひとつひとつさえも、おろそかにしていない。着物の繊細な一本の糸にまで気をくばって描写している。気の遠くなるような反復運動である。だが、それがこの作品に生命をあたえている。
 わたしと彼女は競うようにして、御舟の筆のあとをなぞった。時間のすぎさるのも忘れて描きつづけたこともあった。だが、模写をおえてみると、彼女とわたしの作品では、できばえに雲泥の差があった。
「御舟の域に達したようじゃないか」
 わたしはできあがった彼女の作品を見て、おどろきの声をあげた。
 それほどまでに彼女の模写は的確をきわめていた。それにたいして、わたしの作品はくらべものにならないくらい粗末なものである。
「ボクはキミの相手じゃないよ」
 わたしは本心をうちあけた。
「そんなことはないわよ。たいしたちがいはないじゃないの」
 彼女は気おちしているわたしをはげましてくれた。
 そんな日々をおくるうちに、わたしたちの心のなかには友だち以上の感情がめばえはじめていった。
 わたしたちがもっとも精魂をかたむけて模写した作品がある。御舟の代表作のひとつである「炎舞」である。その作品を模写していたときの情景がおもい起こされる。
 吸い込まれるようなふかい闇のなかに炎が燃えさかっている。炎のうえには何匹もの蛾がむらがっている。
 わたしたちは、模写にさきだって、神秘性と幻想性をかねそなえているこの不思議な作品をいつまでもながめていた。
「絵は挑戦よね。御舟はこの作品でそれまでの写実という袋小路からぬけだせたのよ。着想がすばらしいじゃないの。炎ばかりじゃなく、背景もみのがせないわ」
 彼女のことばがおもい出される。
 わたしも同感であった。
「これまでの日本画は歴史に題材をとったものが多かったからな」
「歴史ばかりじゃないわよ。自然もあったし、宗教もあったわ……。そのほかには装飾なども……」
「……」
「でも、あなたのいうように、炎を題材としたものはなかったんじゃないかしら……」
「ないさ、御舟がはじめてだよ」
「御舟は絵画にあたらしい可能性があることを示してくれたのよ」
 わたしたちはそんなやりとりをしたあとで「炎舞」の模写に挑戦していった。
 筆がすすむにつれてわたしたちは寡黙になっていく。ときおり、彼女のもとへ視線をむけてみると、鬼気せまるような顔つきをしている。わたしも気持ちをあらたにして、模写に専念していく。
 わたしたちはようやくのことで模写をおえた。結果はまえとおなじであった。いや、まえよりもみじめな結果におわった。
 わたしの作品も、燃えあがっている炎にしても、炎のうえで舞っている蛾にしても、それなりには描けている。だが、彼女の作品とくらべると、あきらかに見劣りがする。
 それよりも、決定的にちがうのは背景である。背景は黒一色でおおわれているが、子細に観察すると、たんなる黒ではない。黒と茶色の中間色のようにもおもわれる。それも炎から遠ざかるにつれて、おなじ黒でも色彩が微妙に変化している。
 苦労しながら背景を模写していたときの記憶がよみがえってくる。
 わたしは背景の場所によってことなる色彩を画集のなかの作品とにらめっこしながら筆をすすめていく。彼女にまけられないという意識が脳裏をかすめる。筆をすすめる手がとまる。おもいをめぐらす。渾身の注意をはらいながら一筆をすすめる。わたしはこんどこそはという願いを込めて筆をおいたのだ。
 だが、模写のおわった絵をみくらべて、わたしは愕然とした。子どもの目にも巧拙がはっきりとわかるのだ。
 わたしはその場に自分の作品をなげつけてしまいたいような衝動にかられる。
「オレはだめだ。画家になる資格なんかありゃしない」
 わたしは彼女にやつあたりをしていた。
「そんなことはないわよ。たまたま題材がわたしにむいていただけのことよ」
 そのときも彼女はわたしをはげましてくれた。だが、わたしには彼女のことばがうつろにひびくだけであった。
 それを境にして、わたしは彼女に嫉妬の感情を抱くようになっていった。
 それにもかかわらず、学校を出てからも、わたしたちの付きあいはつづいた。学校のときとおなじように久保田健三画伯の指導もうけつづけた。おたがいに画伯の指導をうけながら人物画のデッサンにあけくれた日々がおもい起こされる。
「大月さんのようにはうまく描けないんです」
 わたしは彼女のいるまえで久保田先生に心境をうちあけたことがある。
「そんなことはない。絵は個性が大事なんだよ。彼女は彼女なりの絵を描いているんだ。キミはキミなりの絵を描いていけばいいんだ」
 先生のはげましのことばに勇気づけられたこともある。だが、彼女の作品を目にするたびにわたしは劣等感におそわれた。彼女には画家としての天分がそなわっていることが実感としてわかるのだ。
 わたしはコンプレックスにおそわれて、悶々とした日々をおくるようになっていった。「そんなに自分をせめちゃだめよ。先生もいっていたじゃないの、絵は個性だって……。あなたはあなたの絵を描けばいいのよ」
 わたしの心を察して、彼女はいつもいたわりのことばなげかけてくれた。
 いつしかわたしたちはふかい仲になっていた。それでいて、彼女への嫉妬心はきえることがない。いや、かえって、ますばかりである。彼女を抱くことでわたしは彼女を征服したような気持ちになったこともある。
 そんなわたしの気持ちにおかまいなく、彼女は絵の道への精進をおこたらなかった。彼女がとおい存在になっていくのがわかった。
「努力を怠らないことよ。きっとあなたなりの絵が描けるようになるから……」
 そんなはげましのことばにも、わたしは嫌悪感を抱くようになっていった。
 わたしは彼女との逢瀬もさけはじめていた。
「キミ、うちの娘はどうかね」
 久保田先生から結婚の打診をうけたのはそれからまもなくのことである。わたしは二十八になっていた。
 寝耳に水のわたしは一瞬たじろいだ。先生のもとへは頻繁に足をはこんでいたので、長女とは面識があるばかりか、ときおり雑談をかわすことがあった。だが、結婚なぞ意識したことはない。それよりも、わたしは絵の道から足を洗おうと真剣に考えはじめていたのだ。
「ボクなんかよりも、もっとふさわしいひとがいるんじゃないですか、お嬢さんには……」
 わたしはていよく断ろうとした。
「わがままな娘だから、キミの断りたい気持ちはよくわかるよ」
 先生はそこで黙してから、
「じつは娘がキミにことのほか好意をよせているんだよ」
 と、いった。
 その先生に、わたしは、
「じつはボクは画家にはむいていないんです。できれば、ほかの道にすすんだほうがいいとおもっているんです」
 と、ほんとうのことをうちあけた。
「そんなことはない。キミには絵の才能がある。ながいあいだ指導してきたんだからわたしにはよくわかるんだ」
「先生、それはかいかぶりです」
「そんなことはない。たしかにこのごろのキミの絵には張りがなくなっている。だから、そんなことをおもうのだろうが、芸術をこころざすものは、気力ののっているときもあれば、スランプにおちいるときもあるんだ。生涯そのくり返しなんだよ。キミだっておなじ経験をしているだけなんだ」
 そのことばを耳にしてみると、わたしの心のなかには、ひとすじのあかりがみえはじめる。脳裏には大月澄子の姿が浮かんだ。めらめらと嫉妬の炎がわきあがってきたのをわたしはいまでもはっきりとおぼえている。
 先生は画壇でも一目おかれる存在である。先生の力にすがればなんとかなる。わたしの心のなかで計算がはたらいた。
「絵の世界も才能や技量だけで世の中に認められることはむずかしいんだ」
 先輩のひとりが口にしたことばが頭をかすめた。
「ボクでよかったら、ありがたくお引きうけします」
 わたしははっきりとした口調でいった。
「わたしに魅力がないからそんなことをいうのでしょう」
 大月澄子の声が聞こえる。
 彼女にむかってわかれのことばを口にしたときのことである。彼女はわたしのことばに動じる気配はなく、凛とした顔つきをしてわたしをみつめていた。
 わたしはいたたまれずに視線をそらした。
「わたしは先生のお嬢さんのように美しくもなく、品もない女ですから、あなたがお嬢さんをえらんで、わたしのもとを去っていくのは不思議でもなんでもないわよ」
 彼女のいったことばがおもい出される。
「申し訳がない」
 それだけいいのこして、わたしは彼女のもとから立ちさったのだ。
 大月澄子のふるまいは冷静そのものであった。だが、そのふるまいとはうらはらに内心では嫉妬の炎を燃やしていたにちがいない。
 わたしはまたもや、画伯の画集に目をそそいでいる。壮絶なまでの嫉妬の感情をあらわにしている美人像がわたしの目をとらえている。
「よほどの体験がなければ、あんな絵を描けるはずがない」
 画家仲間のひとりのことばがおもい出される。
「あんな絵を描かせたのはおまえじゃないか」
 仲間はわたしに疑いのまなざしをむけた。だが、わたしはかたくなに沈黙をたもった。彼女もこの作品について口をはさむことはなかった。それどころか、この作品を世に出してから彼女は絵の世界からぱったりと影をひそめてしまったのだ。
 わたしは彼女の消息を聞くこともなくなっていった。それでも、彼女のことが頭をかすめる。才能があるとおもっていたけれど、ふつうの女にすぎなかったのか。いや、才能はあったけれど、それを殺してしまったのは、このわたしではないのか、といった複雑な感情におそわれつづけた。
「ええ、これが彼女の作品なのか」
 わたしはおどろきの声をあげていた。
 彼女の作品をふたたび目にしたときのことである。
 わたしは画集のページをめくった。そこには影をひそめていた彼女が三年ぶりに世に問うた作品が掲載されている。わたしはその作品に目をこらした。
「まさかこんな作品を描くとは……」
 わたしは無意識のうちに叫んでいた。
 脳裏には長い歳月をへているにもかかわらず、そのときにうけた衝撃のあとがあざやかによみがえってくる。
 それは嫉妬心に狂った女性像を描いた「炎の女」の対極にあるものであったのだ。
 「天女」と題されたその作品は、おなじ美人画でありながら、「炎の女」とちがって、上品な品格をたたえた女性像なのだ。それが彼女の卓越した筆さばきによって描かれている。
 わたしはつぎのページをめくった。
 そこにも彼女の代表作が掲載されている。題材はおなじように美人画である。だが、この作品にも卑俗はおろか情念のかけらすら見出だすことができない。
 わたしはつぎつぎとページをめくっていく。そこにも彼女ならではの作品が掲載されている。いずれも世俗を超越した作品である。彼女は情念の世界から決別して品格のある美だけを追求する画家としての生涯をおくったことがわかる。
 わたしは頭のさがるおもいにかられる。
 それにくらべてこのわたしは……。
 わたしの心にそんなおもいがわきあがってくる。
 わたしがひらいた個展の会場の情景が頭に浮かぶ。六十年配の観客が身うごきひとつせずにわたしの作品に見入っている。
「熱心にごらんいただいて、恐縮です」
 わたしはその男に声をかけた。
「あなたの絵には地獄の相がにじみ出ていますな」
 と、男はくったくのない顔つきをしながらいった。
 それはわたしの本意ではなかった。
「そんなつもりで描いたのではないのですけれど……」
「いやいや、なにも卑下されることはありませんよ。これだけの絵を描ける画家はそうざらにはいません」
 男はわたしの絵をほめているようではあるが、そのときのわたしには、とてもそのようにはおもえなかった。
「これからもこんな絵を描きつづけてください」
 男はそれだけいって、個展会場をあとにしていった。
 男のいうことがほんとうだとすれば、わたしの生き方に問題があるのではないか。わたしはそんなおもいに悩むようになっていった。
 ベッドに入っても眠れない日がつづいた。そんなある夜のことである。悶々としていると、わたしは幻覚におそわれていった。大月澄子の「炎の女」が浮かんでくる。絵のなかの炎がわたしの頭のなかでもえはじめる。炎は時間をおって大きくなっていくばかりである。
「あなたは愛するひとにうらぎられた人間の苦しみがわかりますか」
 炎の女がうらめしそうな顔つきをしてわたしをせめたてる。
 わたしは身うごきもできずに時間のすぎさるのをまちつづける。
「あなたは悪人です。わたしは呪っています。その呪いで地獄につきおとしてみせます」
 わたしの脳裏には、「炎の女」にかわって、かってみたことのある地獄絵が浮かびはじめる。大きな炎が音をたててもえはじめる。わたしはその火のなかになげこまれ、苦しみのあまり、身をのけぞらせて、絶叫している。
 わたしは何回となくそんな責苦にあったことがある。だが、そんな悩ましいことも年月 の経過とともに影をひそめるようになっていった。大月澄子をみる目もかわった。彼女はいまや日本の画壇に確固とした地位をきづくまでになっている。懺悔の気持ちにかわって、羨望のまなざしで彼女をみるようになっている。だが、彼女の逝去の報にせっしてみると、またもや、懺悔の気持ちがわいてくる。
 つい一か月ほどまえにみた夢のあとがおもい起こされる。
 わたしはひとりの女とベッドをともにしていた。みおぼえのある女である。夜だというのに周囲がやけにあかるい。そのせいで、女の顔だちがよくわかる。凛とした顔つきをしている。澄んだ目がなにかをみつめている。まぎれもなく大月澄子の顔である。だが、わかいころの彼女ではない。ずっと四肢がゆたかになっている。円熟した彼女のからだがわたしの情欲をさそう。わたしは夢中で愛撫する。彼女はすなおにしたがう。気高い容貌が妖艶な顔だちになっている。彼女はからだをくねらせはじめる。口からうめき声がもれる。わたしは彼女とからだをあわせる。現実の性生活で味わったことのない快感がおしよせてくる。わたしは欲望のおもむくままに身をゆだねていった。
 わたしはまだ夢のなかにいた。だが、愛欲の時間はながくはつづかなかった。部屋のなかがやけにあかるくなっている。まわりをみまわすと、部屋のなかが炎につつまれている。炎のなかに蛾が乱舞している。乱舞していた蛾が身を焼かれながら炎のなかに消えていくのだ。
 わたしははっとして目をさました。からだが汗まみれになっている。快感にかわって懺悔の気持ちがわいてくる。わたしはベッドのうえに身を起こして頭をたれた。
 わたしはふたたび目のまえにある大月澄子の画集に目をおとした。この画集がおくられてきたのも一か月ほどまえのことである。画集のなかには「寄贈」という二文字だけがそえられている。わたしがみてはならない夢をみたのはその夜のことであった。
 わたしと大月澄子の関係は絶えて久しい。画壇の集いで顔をあわせたときの情景が頭をよぎる。わたしがかるく会釈をすると、彼女も心もち頭をさげた。わたしたちはその程度の関係になっている。それでも、彼女は世間の注目をひく作品を出しつづけてきたので、おのずとうわさは耳にしている。
「わたしというれっきとした妻がいるというのに……。あなたというひとは……。子どもでもわかるようなウソをついて……」
 罵声をあびせかけながら泣き叫ぶ妻の声が耳をつく。
 師事していた久保田画伯の娘と所帯をもってからのわたしは、妻の嫉妬に悩まされつづけてきた。
「いつも女の影があったじゃないの」
 妻の反論の声が聞こえる。
 そういわれれば、返すことばがない。還暦をむかえたいまではかってのような元気はない。それでもいまだに愛欲の世界から完全に足をあらったわけではない。
 大月澄子の生活ぶりがしのばれる。
「彼女は色恋沙汰とは無縁だよ、絵をみればわかるじゃないか」
 画家仲間のひとりがいったことばがおもい起こされる。
「キミにはひとをまとめていく力がある。わたしが力添えをすればなんとかなる」
 久保田画伯の声がする。
 わたしを画壇の理事に推薦するというのだ。わたしはためらうことなく快諾した。それから四期にわたって理事の地位にある。それでいて、いまだその地位を手ばなす気になれない。それどころか、理事長の椅子をねらっているのだ。
「理事をお願いしたのですけれど、どうしても引きうけてもらえませんでした」
 知り合いの画家の声がする。
 大月澄子はわたしとは別の画壇に所属していた。その画壇では、理事のひとりに彼女を推薦することになったというのだ。
「理事になれば、選考の役職もあたえられますから、といったのがかえっていけなかったんですよ」
「どうしてですか」
 わたしは疑問のことばをなげかけた。
「わたしには不向きです、ときっぱりとした口調でいわれました」
 そういって、残念がっていた知り合いの画家の姿が目に浮かぶ。
 わたしはそんな身の処し方もあるのか、とおもっただけであったが、いまはちがった感慨におそわれる。
「この絵は独創性に富んでいますね」
 ひとりの理事が口をひらいた。新人の作品の選考会のことである。
 わたしも最初からその作品に目をつけていた。初期のピカソの人物画がわたしの頭をかすめた。だが、理事のことばを聞いたとたんに嫉妬心にかられはじめていた。
「独創性といってもこの程度ではね。それよりも表現がつたなすぎますな。わたしは評価しません」
 わたしのひとことでその作品は落選となったのだ。わたしはその新人にもわびたい気持ちになってくる。
 わたしはことのほか嫉妬心のつよい人間である。自分でも自覚しているのであるが、それがいつになくうとましく感じられる。大月澄子が嫉妬心を燃やしたのはただのいちどだけである。彼女はそれを境として、別人としてよみがえったのだ。それなのにこのわたしは還暦をむかえたいまでも嫉妬心から抜け出せないでいる。
「煩悩の炎は消そうとおもっても、消えるものではありません」
 ひとりの男の声がする。
「あなたの絵には地獄の相がにじみ出ていますな」
 と、わたしの個展の席でいった男である。その席での出会いがきっかけとなって、わたしはその男と親交をふかめていった。
「あなたの専門は人物を描くことではないですか。人物を描くということは自分とむきあうことでしょう。ほんとうの悪人には人物は描けません」
 男のいったことばがおもい起こされる。
 男は人相学の大家であるばかりか、仏教にもつうじていた。
 大家がさずけてくれたことばは、それからのわたしが絵の道を歩んでいくうえで、なにものにもかえがたい教訓となっている。
 わたしは大家から教訓をさずかってから、仕事がうまくいかなくなると、そのたびに自画像を描くことにしている。
 わたしは自分とむきあうために、ためらいなく自分の顔を鏡にうつす。そこにうつっている顔をみつめながら、筆をすすめていく。いろいろな想念が頭をかけめぐる。煩悩の炎を消せない心のよわさが顔にあらわれてくる。懺悔の念にかられる。
 そんなときにはきまっておもい出されるのが大家のいったことばである。
「ひとの心はひとつではありません。地獄の心もあれば、仏の心もあります。でも、悲しいことですけれど、われわれ凡人は仏の心にはなりきれないのです」
 わたしは大家のことばにはげまされながら自画像を描きつづけていく。
「煩悩の炎に悩まされながら、六道の道を歩みつづけているのが、あなたであり、わたしなのです」
「……」
「あなたの絵にはその六道の道をさまよっている人間の姿が描かれているんです。顔のなかの皺のひとつひとつが煩悩に苦しめられてきた爪あとかもしれません。わたしがあなたの絵に魅かれるは、煩悩から抜け出そうとしながらも、抜けだし切れない人間の相がつつみかくさず描かれているからです」
 わたしは大家のことばに安堵しながら、自分の顔の皺のひとつひとつを入念に描きながら自画像を仕上げる。すると、ふしぎなことにあらたな作品にむけて意欲がわいてくるのだ。そのときにはきまって、大家のことばに甘えてはならない、という意識がわいてくる。
 わたしは椅子から立ちあがり、キヤンバスのもとに足をすすめて、描きかけの自画像をみつめた。こんどこそ、煩悩を超越した自画像にしてみせると、意気込んで描いてきた作品である。それも仕上げの段階まできている。だが、わたしの意気込みとはうらはらにこれまで描いてきた自画像と大差がないことがわかる。
 自画像をみつめていると、煩悩の炎と手が切れない自分がうとましくなってくる。それでいて、いざ手ばなすとなれば、画家としての生命がたたれるような衝動にかられる。
「それにくらべて、大月さんは……」
 わたしの口から吐息がもれた。
「あなたはあなたの絵を描けばいいのよ」
 大月澄子がそうかたりかけてくるような気がする。
(了)


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ご神体

 わたしは食卓のうえに新聞をひろげながらひとりでおそい朝食をとっていた。いつもは妻と食卓をともにするのであるが、妻は娘の出産の手助けにいっていて留守である。わたしはコーヒーをすすりながら新聞のページをめくった。
 わたしの目は一点でとまった。「生命科学のゆくえ」という見出しが目にとまったのだ。一面をつかった特集記事である。冒頭の解説文をよむと、わたしたちの生命をつかさどるDNAの構造をつきとめて、研究仲間のジェームズ・ワトソンとともにノーベル賞をうけたフランシス・クリックが八十八歳でなくなったことが記されている。そのあとで、クリックは命の情報を伝えるDNAの存在を、はっきりしたかたちであきらかにした科学者であったことが紹介されている。
 生命の科学はクリックたちの貢献もあって、日進月歩の勢いで発展をつづけている。だが、その一方で、このまま研究がすすんでいくと、わたしたちの生き方にも影響をあたえかねない大きな問題をはらんでいる。そこで特集記事では、実際に研究にたずさわっている科学者と、それを批判の目でみている宗教家による対談をつうじて、生命科学がかかえる問題点の一端をあきらかにしようというものである。
 わたしはさっそく対談のあとをおった。対談をリードしているのはマスコミによく顔を出す生命科学者である。
「二十世紀は生命科学が花をひらいた世紀でありました。それには多くの学者が貢献しているのですけれど、もっとも貢献度がたかい学者となると、ワトソンとクリックをおいてほかにはおりません」
 生命科学者はクリックたちの研究がいかにすぐれたものであったかに賛辞のことばをおくっている。
「人類の歴史は五万年で、文明の歴史はやっと一万年そこそこです。それにくらべて、DNAは地球上に生命が誕生してから、ずっと二重らせんのまま存在しているのです」
 科学者のいった「二重らせん」ということばがわたしの注意をひいた。かつて、わたしはその仕組みについて平易に解かれた解説書をよんだことがあるが、その詳細についてはほとんど忘れてしまっている。ただひとつはっきりおぼえているのは、解説書の冒頭に掲載されていたDNAの構造を示す、色彩のあざやかな二重らせんの模型である。
「クリックたちはDNAが二重らせんの状態で存在していることをあきらかにしたわけですけれど、かれらの貢献はそれだけにとどまりません。DNAは生命がこの地球上に誕生してから、現在にいたるまで、ひとときもやすむことなく、生命の情報をつたえつづけているのです。まさに地球上で、最古にして最新の古文書がDNAなのです。その古文書の存在に気づいたのもクリックたちだったのです」
 科学者はクリックたちの具体的な研究の成果についてふれている。わたしは科学者の解説をよみながら、あらたな感動におそわれた。われわれ地球上の生物がどのような経過をたどり、いまどうような状態にあるのかが、DNAのなかにしっかりと記録されているというのだ。
「クリックたちの発見のおかげもあって、生命の科学はいちじるしい発展をとげたわけですが、そのなかでもとりわけ顕著なものは遺伝子とゲノムの研究です。それによって生命のしくみがわかってくるにつれて、わたしたちの社会生活にも大きな影響がおよんでいます。バイオテクノロジーがその典型のひとつですけれど、直接人間にかかわるものにかぎってみても、医療や製薬の分野ではこれまでにない発展がみられています。でも、これは道半ばにすぎません」
 わたしはそのとおりだとおもった。そのうえで、科学者のことばをおってみると、
「遺伝子とゲノムの研究はこれからが本番です。これからもわれわれ人類の生存のために寄与する発見がなされ、二十世紀に花がひらいた生命の科学は二十一世紀になって、もっともっと大きな果実を実らせることになるのです」
 と、きっぱりと断言している。
「それはどうでしょうか。わたしにはそのようにはおもえません。たしかにわたしたちは科学の進歩の恩恵にあずかっています。しかし、人間のやるべきことにはおのずから限界があるのです」
 対談の相手はカソリックの神父である。彼はキリスト教の立場からマスコミで文明批評を展開している。その神父が科学者にまっこうから反論をくわだてている。わたしはふたりのやりとりをおった。
「遺伝子やゲノムの研究はその限界をこえているといいたいのでしょうね。あなたの立場からすれば、当然の見解でしょうけれど、……」
「遺伝子の研究が医療や製薬の領域にとどまっているならば、まだ限界すれすれのところにあるといえますが、これ以上生命の問題に介入するとなれば、それは神への反逆以外のなにものでもありません」
「おことばではありますけれど、これまでだって、科学は神のおしえに反逆してきた歴史でもあるのです」
「いや、生命の科学は根本的にちがいます。われわれの生き方を大きくかえていく危険な要素をはらんでいるのです」
「生命の科学はこれまでになかった研究の分野なのです。それだけにいろいろな問題をかかえているのはたしかです。その点では、あなたが危惧されることもわからないわけではありません」
「そうですとも。生命の科学というと、経済活動や健康の問題、さらには日常生活の利便性といったことに関心がゆきがちですけれど、それよりも、もっと大きな問題があることにめざめるべきです」
「それも同感です。DNAは地球上に生命が誕生して以来書きつづけられているおかげで、われわれはどこからやってきて、いまどこにいるのかということが、わかってきているのですけれど、これからどこへいくのか、どうあるべきかということは書かれていなのです」
「それは神のみが知ることです。このまま遺伝子やゲノムの研究をゆるしておけば、そのうちに神の意思を無視して自分たちに都合のいいように人間につくり変えることだってできるでしょう」
「そうかもしれません。でも、それだからといってただちにわれわれの研究を否定するのもいかがなものでしょうか。科学は人間を幸福にするためにあるのです。生殖医療によって、人間の願望がかなえられるのであれば、とうぜんその分野の研究もすすめるべきです。もっとも、それが人間に不幸をもたらすリスクが大きすぎるのであれば、やるべきではありませんけれど……」
「そんな中途半端なことはできないでしょう。人間はいったん手にしてしまったものは決してはなすことはありません。戦争につきすすむ人間の行動をみればよくわかるではありませんか」
「おろかだとわかっていても、つきすすむしかないといわれるのですね」
「まさにそのとおりです。人間の理性や善意だけにまかせられる問題ではありません。この難局を救えるのは神だけなのです」
「一世紀前ならあなたの論理も通用したのでしょうけれど、このご時世に神の救済をもちだしてもなんらの説得力もありません」
「科学万能という信仰に毒されているからそんなことをいわれるのです。どんなに科学が進歩しても、神の愛をこえることはできません。もういちど神の愛をみつめなおすべきです」
「聖書にかえれといわれるのですか」
「そうです。荒唐無稽だとおもわれるかもしれませんけれど、創世記のおしえをしっかりとうけとめるべきです」
「荒唐無稽だとはおもいませんよ。わたしも聖書は好きです」
「そうですか。それならおわかりいただけるでしょう。神がさいしょにつくったのがアダムだということは……」
「もちろん、承知しております。それでアダムがひとりでいるのはよくないとおもったので、神はアダムを眠らせて、アダムのあばら骨からエヴァをつくったのでしょう」
「神はふたりが楽しい生活を送れるようにエデンの園にすまわせたのです。それなのに……」
「神が絶対に手をふれてはいけないと命じた善悪の知識の木にふれて、そこから禁断の実をとって食べたのですね」
「おっしゃるとおりです。神の命令にそむいたから、神はアダムとエヴァをエデンの園から追放したのです」
「追放したばかりではありませんでしたね」
「神はエヴァに出産の苦しみをあたえました。アダムにはパンを得るために額に汗をながして働かなければならないようにしました」
「ずいぶんとむごい仕打ちではありませんか」
「そうかもしれません。でも、神は神なりにちゃんと愛の目でみているのです」
「具体的にはどのようなことでしょうか」
「愛しあうことをさずけたのです。肉体のよろこびをあたえたのです。そのなかから自分たちの子孫をふやしていくようにしたのです」
「苦しみだけではかわいそうだとおもったのでしょうか」
「そうですとも。それなのにアダムとエヴァの子孫たちが、またもや神の意志を無視しようとしているのです」
「……」
「いや、すでに無視しているのです。神は快楽にもちるだけで肉体のよろこびをさずけたのではありません。子孫をのこすことが前提なのです」
「性欲を快楽だけに求めはじめているのはたしかですね」
「神の怒りはおさまりません。善悪の木に手を出したつけがそのうちにまわってくるにちがいありません」
「せっかくですけれど、わたしは無心論にちかい人間ですので、聖書のことばをそのまま神のおしえとしてはうけとれないのです。人間が快楽だけを目的としてセックスをおこなうようになったのは、それなりの環境の変化があったからでしょう。それに応じて、DNAもかわっていったのです、きっと……」
「……」
「でも、これからも発展をつづけていく生命の科学を考えた場合には、あなたの危惧されることもじゅうぶんに念頭におかないといけません。あなたのいわれるように、われわれの生き方を左右するような大きな問題をはらんでいることはたしかですから」
「もっとも危険なことは人間が勝手にDNAを操作して、あたらしいのちをつくることです。もうかなり研究がすすんでいるというではありませんか」
「ええ、すすんでいます。これからはどのような技術をわれわれが選択するかです。一歩まちがえば、こんどはエデンの園をおいだされるだけではすまずに、地獄におとされるかもしれませんからね」
 それからもふたりの討論はつづいた。だが、意見が一致するはずもなかった。科学者は人間の英知をもってすれば、困難な問題でもきっと解決ができると主張したのにたいして、聖職者は人間の英知と善意には限りがあるので、宗教の力に救いを求めるべきだと主張してゆずろうとはしなかった。
 わたしは新聞から顔をあげた。
――DNAは神の手から人間の手にゆだねられたのであろうか。そうであれば、わたしたちはこれまでにもったこともない魔法の杖を手にしてしまったことになるのであろう。
 わたしはそんな感慨にふけっていると、電話の呼び出し音がなった。
 さっそく受話器をとってみると、
「あ、あなた生まれたわよ」
 という妻の明るい声がした。
「そうか、予定日をすぎているから心配していたんだよ。それでどっちなんだ」
「こんどは男の子よ、まるまるとした元気のいい子なの」
 娘たちにはすでに二歳になる女の子がいる。
「そうか、それはよかった。それで芳子も元気なんだろう」
 わたしは娘の健康を案じた。
「ええ、元気よ」
 わたしは母子ともに健在であることを聞いて胸をなでおろした。
 電話を切ると、わたしはまた食卓の椅子に腰をおろして、冷めたコーヒーを口にふくんだ。にがい香りが口のなかにひろがった。
 わたしは自分たちの境涯におもいをはせた。娘たちも、わたしたちも平凡ながら適齢期に伴侶をみつめて所帯をもった。そして、性生活つうじて、こどもを産んで育てている。結婚すれば、だれもが歩む道を歩んできたのだ。
――ことによると、これからはこの関係が変わるかもしれない。
 ふと、そんなおもいが脳裏をかすめた。
 もとより、娘たちにとっては、そればかりではないにしても、これまでの日常の性生活は子孫をのこすことと深くつながっていた。だが、子どもはふたりだけと決めているこれからの娘たちは、長年にわたってわたしたち夫婦がたどってきたこととおなじように、出産を前提とはしない性生活を延々とつづけていくことになるであろう。
 これは科学者のことばをかりるまでもなく、当初のDNAの構図とはちがっている。問題はもっと深刻で、生命の科学が進歩することによって、性生活と子孫の誕生がはじめからまったく別個のものになるのではないかということである。わたしには、それが現実の問題になるような気がしてならない。
 わたしの脳裏をかすめるものがある。幼いころに体験したことである。
 わたしは半農半漁の小さな村で産まれて、その地で育った。その村里のはずれには小さな祠(ほこら)あった。わたしはこの祠のまえをとおるたびに不思議なおもいにかられた。新生児が産まれるたびに村人たちはその新生児を抱いて、この祠におまいりをするからなのだ。
 わたしはたまたま祖父といっしょに祠のまえをとおりかかったことがある。
「ここにはなにがまつってあるの」
 わたしは素朴な疑問を祖父になげかけた。
「ご神体がまつってあるんだ」
 祖父はそっけなくこたえた。
「どんなご神体なの。いっぺんみてみたいなあ」
 と、わたしはいった。
「子どもがみるものじゃない。みたらバチがあたるぞ」
 いつも温和な祖父がこのときばかりはきびしい声をあげた。
 それにもかかわらず、わたしはそのことが気になってしかたがなかった。
「おまえ、祠のなかになにがあるかみたことがあるかい」
 わたしは友だちのひとりに声をかけてみた。
「ご神体があるんだよ、お祖母ちゃんがいっていたもの」
「ご神体ってどんなものなのか、みてみたいとおもわないかい」
「そりゃ、みてみたいさ。でも、やたらにみたらバチがあたるというじゃないか」
「うん。オレもお爺ちゃんからそういわれた。でも、だれにも内緒にして、ふたりだけでそっとみればバチなんかあたらないよ」
 わたしは足がひけている友だちを無理にさそって祠にむかった。そして、まわりにだれもいないことをたしかめるとおそるおそる祠の引き戸をあけてみた。
「これはなんだ」
 わたしは目のまえに安置されているものをみて、おどろきの声をあげた。友だちも目をパチパチさせながらまえにあるものをみつめていた。
 そこに安置されていたのはふたつの石であった。ひとつは男のシンボルをかたどったものである。小学生のわたしにもすぐにわかった。だが、もうひとつはわたしにとって不可解なものである。ちかよってじっとみつめ直してみると、石のなかほどがえぐりとられていて、それは貝のかたちをしていた。
「これがご神体なのか」
 わたしはとなりの友だちに声をかけた。
 友だちはしきりに頭をよこにふっていった。
 みてはいけない、といった祖父の声が聞こえてくる。
「なぜ、爺ちゃんはみてはいけないといったんだろうな」
 わたしはひとりごとのようにつぶやいた。
「オレたちにはわからない深い意味があるのかもしれないぞ」
 友だちはおそるおそる声をだした。
「だから、爺ちゃんはバチがあたるといったのかもしれない」
「……」
「これはふたりだけの秘密にしておこう。だれにもしゃべっちゃいけないぞ」
 わたしは友だちに念をおした。
 そうはいっても、それからも石のご神体は小さなわたしの心をなやませた。ふたつの石がわたしの頭にこびりついてはなれようとはしないのだ。
「オレ、爺ちゃんのいいつけをやぶってしまったんだ」
 おもいあまったわたしは祖父にそううちあけた。
「みてはいけないっていったじゃないか」
 祖父はきびしい顔つきをしながらいった。
「ほんとうにバチがあたってしまうのかな」
 わたしは哀願するように祖父をみつめた。
 祖父はしばらく黙していたが、
「あとでおまいりして、バチがあたらないようにあやまってやるよ」
 と、祖父はやさしい声でいった。
「でも、オレにはなんであんな石がご神体なのかわからないんだよ」
 わたしは祖父に本音をうちあけた。
「いまのおまえにはわからないさ。でも、あの石には深い意味があるんだ」
「じゃ、大きくなればわかるんだね」
「わかるさ」
 祖父はそれだけいって口をつぐんだ。
「オレは爺ちゃんのことばを信じるよ」
 祖父とわたしの会話はそれっきりでおわってしまった。その祖父のことばが実感として感じられるようになったのは、わたしが社会人になって、民族学の本をかじるようになってからのことである。
 いまでも石でつくった男女の性器をご神体として安置してある神社や祠がのこされていることを知ったのだ。それは神道が体系化されるまえの太古の昔から存在していたという。そのうえ、この風習は日本ばかりでなく、世界各地にもみられる現象だといわれている。それも未開社会ならいざしらず、かなり近代化された国々においても、いまだ風化されずにのこっているというのだ。
 かつて、書物で得た知識がおもい起こされる。
――世の中にはいろんなご神体があるけれど、この石をのりこえるようなご神体がありえようか。
 わたしはそんな感慨におそわれる。
 男女が愛しあって、その結晶として、子孫をのこしていく。それを具体的に可能にしているのが男女の性器にほかならない。それはこの世の中に人類が生存してからずっとつづいてきている。
――それはこれからもつづいていくのであろうか。
 わたしの頭のなかにはひとつの疑念がわいてくる。
「このままでは、つづいていくわけがありません」
 神父の嘆きのこえが聞こえてくる。
「神が愛のあかしとしてあたえた恩恵を、人間たちはただ快楽のためだけにつかいはじめているではないか。それをまた一歩すすめて、出産と性行為とをまったく別個のものとしてしまおうという悪知恵が神のゆるしもなく、人間たちのあいだで堂々とすすめられているではないか」
 神父の怒りの声はおさまる気配がない。
「人間の欲望を現実のものにするのが科学者の役割です。丈夫な子どもがほしい。頭のいい子どもがほしい。性格のよい子どもがほしい。……。いずれも多くの親たちの切実な願いではありませんか。科学の力でそれがかなえられるのなら、かなえてやるべきです」
 説得口調の科学者の声が聞こえてくる。
「それは人間のやるべきことではありません。実を結ばない愛はむなしいものです。世の中の秩序を乱すだけです」
 神父の悲痛な叫び声がする。
「あなたの危惧していることはわかります。でも、人類を破滅に導くことは、いくらおろかな人間でもするわけがありません。いや、させてはいけないのです」
「それは人間の知恵ではできないのです。神のまえに懺悔すべきです。そこからすべてがはじまるのです」
 わたしの頭のなかでは科学者の説得にも耳をかそうとしない神父の絶叫する声はやみそうにない。
 たしかに親の子どもにたいする欲望ははてしなくひろがっていく。だが、いままでならば、そんな欲望をもったとしても、それを現実のものにする術はなかった。それがDNAを操作することによってそれができる時代が到来しつつあるのだ。
 それも細胞のなかから男女の遺伝子をとり出して、それを取捨選択して、親たちののぞむ子どもを誕生させることができるようになるかもしれないというのだ。
――それには男女の交わりを必要としないというではないか。
 すでに、クローンではそれが現実となっている。もっと技術がすすめば女のからだをかりなくとも新しい生命を誕生させることができるようになるであろう。
――そうなると、男女の交わりは、快楽のためだけに存在することになるのか。神の名をかりるまでもなく、そんなことがゆるされることなのでろうか。
 わたしの頭のなかでは次々とあらたな疑問がわきあがってくる。
 われわれの祖先がこの世に生をうけてから延々とかきつづけてきたDNAをわずか二三十年のあいだに根底からくつがえされようとしているのだ。
 そうなれば、太古の昔からあがめられてきた石のご神体が、まったく存在する価値を失ってしまうにちがいない。
 わたしの頭のなかには、幼いころ胸をときめかしてみたことのある、あのふたつご神体があざやかによみがえっていた。
                                    (了)


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反逆の絵

      1 

「これがおまえの絵なのか」
 眞吾の部屋に入ってくるなり、父親の遥峰は怒りの声をあげた。
「これこそがボクの絵なのです」
 眞吾は挑戦的なまなざしをむけた。
「おまえ、気でも狂ったのか」
「いたって、正気です」
「いや、気でも狂わなければこんな絵が描けるわけがない」
 遥峰は顔を紅潮させながら、はげしく首をふった。
 眞吾は無言のまま遥峰と対峙している。
 沈黙がつづいた。
 沈黙をやぶったのは遥峰である。遥峰は眞吾の肩に右手をそえながら、
「なあ、眞吾よ、若いころは試行錯誤をするもんだよ。わしもそうだった。試行錯誤をかさねて、そのなかから自分なりの画風をつかんでいく。みんなやることなんだ。でも、おまえの絵はちがう。まったくちがった道を歩もうとしているんだ」
 と、眞吾の作品に目をおとしながらいった。
 問題の作品は眞吾の自画像である。それも仮面をかぶっている自画像なのだ。真っ黒な衣服を身にまとい、仮面には厚化粧がほどこされている。白粉が厚ぼったく塗られ、唇は真っ赤に彩られ、まぶたのふちにはピンク色のアイシャドーが色濃くなぞってある。そのうえ、仮面の顔はゆがんでおり、一見して嫌悪の感情を起こさせるものである。
「こんなもの絵ではない。少なくともおまえが描く絵ではない」
 遥峰は威厳のある父親に戻って、眞吾をさとした。
「いいえ、これこそが本物なのです」
「なに、それでは、これまでのおまえの絵はニセモノだったというのか」
「そのとおりです。おやじのものまねにすぎなかったのですから……」
「それはちがう。おまえはわしの血筋をひいている。いや、わしばかりではない。わしのオヤジの遺伝子もうけついでいるのだ。おまえはそれにふさわしい絵を描きつづけてきたではないか」
 眞吾の脳裏には、いまは亡き祖父の面影がよみがえってくる。その面影は眞吾が絵のデッサンを教えてもらったときの情景にかさなりあっていく。
「上手に描けるようになったな。ちょっと教えただけなのに……」
 そういって、目を細めていた祖父の顔がまぶたに迫ってくる。
「おまえは道さえはずさなければ大成できる。このわしの目は節穴ではないぞ。いまのうちに軌道を修正して、基本に立ち返るのだ」
 遥峰は語気鋭く迫った。
 父の遥峰の求めるところはおのずから知れていた。だが、眞吾はそれにはこたえずに沈黙をまもった。
「いいかわかったな。原点に返って、わが家の画風を引き継ぐのだぞ」
 遥峰が念をおした。
「いいえ、約束はできません。ボクの一存ではどうにもならないのです」
「それはどういうことなんだ」
「ボクの心のなかには別人が住んでいるのです。それもひとりだけではなく……」
「おまえ、頭は大丈夫か」
 遥峰は自分の頭を人差し指でつっつきながらいった。
「いくら説明してもわかってはもらえないでしょうね、きっと……」
「人間の生きる道にはいろいろある。それくらいのことはわかっておる。でも、なかには宿命を背負って生まれてくるものもいる。おまえもそのひとりなんだ。おまえのなすべきことは二代つづいた絵の道を完成させることなのだ」
「断ったどうなるのですか」
 遥峰は絶句した。
「父と妥協をするのだよ」
 眞吾をさとす心の声が耳をつく。
 それを打ち消すように、
「それはダメだ。妥協をしたら、おまえの絵の道はとざされるだけだ」
 と、別の声が眞吾の心のなかからわきあがってくる。
「わしのいうことに従えなければ、親子といえども破門にするまでだ」
 沈黙していた遥峰が威厳にみちた口調でいった。
「……」
「わかったな。原点に戻るのだぞ」
 遥峰はおなじことを繰り返して、眞吾のもとをあとにした。
 一呼吸おいて、眞吾は画架のまえに腰をおろした。脳裏には遥峰の作品が浮かんでいる。畏敬の念をもって模倣しつづけてきた美人画である。眞吾は深呼吸をひとつして、脳裏に浮かんでいる美人画のしなやかな線を画紙のうえになぞろうとした。だが、手がうごかないのだ。なおも懸命になって、指先に指令を伝えようとするが、指先は硬直して眞吾の意志に逆らうばかりである。
「自分の絵を描くのだ!」
 とつぜん、心の奥底から突きあげる声がとどろいた。眞吾はその声を素直にうけ入れた。

      2 

 加賀眞吾は伝統のある画家の家系のもとに生をうけた。父親の遥峰は美人画の世界に新境地をひらき、いまや画壇の重鎮として名を馳せている。祖父の加賀遥雪も絵を専業とし、風景画に細密な写実表現をもち込んだ画家として名をのこしている。
 二代つづいた画壇の名門の家に生まれた眞吾の血筋は疑うべくもなかった。幼いころから絵ごころに目覚め、祖父や父の作品に目を通していたかとおもうと、やおら絵筆を握って模写をはじめて飽きることをしらなかった。
「やはり血筋はあらそえないな」
 そんな眞吾の姿を見て、遥峰は頬をゆるめた。
 成長するにつれて、遥峰の期待は高まるばかりであった。祖父の遥雪が研鑽をつんで、ようやくのことで身につけた細密描写の画法をわずか十八のときに掌中におさめていたのだ。
「りっぱな跡継ぎができて、先生もこれでひと安心ですね」
 まわりから羨望のまなざしで見られるようになった遥峰は、だれはばかることなく、
「あいつはいずれわしを越える。まちがいなく、加賀の絵は三代目にして頂点に達する。このわしの目に狂いはない」
 とまでいい切るようになっていた。
 眞吾は新進気鋭の画家として順調なスタートを切った。そればかりか、血筋のよさも加わって、日本画壇のあたらしい星として、将来が嘱望されるようになっていった。
 その眞吾が心の奥底からわきあがってくる不気味な声に悩まされはじめたのだ。
「たしかに父は美人画で一時代を画した。女性の有する高貴で純潔なイメージだけを追求することによって、あたらしい美人画の世界を築きあげたのだから……。でも、ボクにいわせれば、父の絵はうわべだけの美を追求したにすぎない。おまえは美の底に潜んでいるものを追求するのだ」
 容赦のない声が眞吾の耳にとどろく。
「祖父の絵だっておなじことではないか。たしかに祖父は花鳥風月が自然のなかで織りなしている絶妙の美を独自に探求した技法によって表現することに成功をおさめたのだから……。でも、祖父の絵もひとの目を楽しませることしかできなかったではないか。おまえはうわべだけの美とは決別して、ひとの心を揺さぶる絵を描くべきなのだ」
 眞吾を鼓舞する声がつづく。
 自分の心のなかからわきあがってくる声は途絶えることなくつづいた。その声にうながされるようにして描きあげたのが仮面をかぶった自画像であった。
 その出来ばえはともかくとして、父の評価を得られないことは先刻承知していた。だが、いまの眞吾にとっては、たとえ、遥峰から破門されようとも、みずからの心のなかにいる分身とおぼしき声に耳をかたむけて、そこからさずけられる忠告に従うことが、あらたな絵の世界を切りひらく道ではないかとおもうようになりかけていた。

      3 

 眞吾はわだかまりの気持ちをもったまま眠りについた。熟睡できないままうとうとしていると、重苦しい抑圧感が襲ってきた。いつの間にか、どろどろした渦が眞吾の頭のなかを取り巻きはじめる。そのうちに、その渦のなかからひとりの男が吐き出された。
 その男は眞吾のもとへ歩み寄ると、眞吾と向かいあって正座した。男はいたって素直な顔つきをしているが、どこか不安そうで、なにかにおびえているようである。だが、よく見てみると、ことのほか、よく慣れ親しんだ顔つきをしている。眞吾がほほ笑みかけると、はにかみながら笑みを返してきた。
 静かになっていた渦のうごきがにわかに激しくなったかとおもうと、渦のなかからもうひとりの男が吐き出された。こちらも眞吾と同一人物とおもわれる。だが、さっきの男とちがって、みるからに精悍な顔立ちをしている。男は目を輝かせながら、眞吾のまえにすすみ出て、かすかに頭をさげてから、まえの男のとなりに坐った。男は坐ってからも射るようなまなざしを眞吾に向けている。
 渦は断続的に静かになったり、激しくなったり常道運動をくりかえしている。そして、渦のうごきが激しくなったところで、また眞吾と同一人物とおもわれる男が吐き出された。男はゆっくりとした足どりで、眞吾のもとに歩み寄ると、深々と頭をさげてから、まえの男たちとおなじように横一列にならんだ。男はふっくらとした顔立ちをしており、落ちついた雰囲気をただよわせている。
 渦のうごきが激しくなったところで、同一人物とおもわれる男が、もうひとり吐き出された。男はおちつかない様子で、あたりをキョロキョロ見まわしながら、眞吾のまえにすすみ出てから、みんなとおなじように正座した。正座してからも、身をかがめて、横にならんでいる男たちをのぞいたりしている。
 渦のうごきとともに、上半身や頭だけ出したままで、もとの渦のなかに巻き込まれてしまう男たちもいる。それらの人物もみな眞吾とおなじような顔立ちをしている。
 眞吾は自分とおぼしき四人の男たちと対面する仕儀になった。面映ゆい気分である。それでも、正座している男たちを見まわしてから、
「キミは絵の道に希望を見出すことができるかね」
 と、最初に渦のなかから出てきた男に声をかけた。
 男は即座にこたえずに、しばらく考え込んでいたが、やがて、口をひらいて、
「もういちど挑戦する機会があれば……」
 といって、じっと眞吾を見つめた。
「どういう意味かね」
 眞吾は詰め寄った。
「二代つづいた絵の道を完成させることが自分の役目だと心得ていた。祖父の遥雪が築いた礎を、父の遥峰がりっぱに育てあげた。それを守りながら完璧なものに仕上げるのが自分に課せられた責務だと信じて疑わなかった。いや、いまでもそうおもっている。それなのに、心ない男にかどわかされて、こともあろうに、父親に弓をひこうとしているのだ。大恩のある父に……。でも、いまからでもおそくはない。父に詫びを入れて、もういちど父の歩んだ道を深めていこうじゃないか、ボクと一緒に……。それが加賀の血をひいた人間がすすむべき唯一の道なのだから……」
 男は哀願するような口ぶりでいった。
 眞吾は二番目に座っている男が、さかんに首を横にふりつづけているのに気がついて、「反論がありそうだな」
 と、発言をうながした。
 男は身をのり出してしゃべりはじめた。
「心ない男とは無礼じゃないか。たしかに父に弓をひこうとしているのはこのボクにちがいない。それもこれももっと大きな世界に飛躍するためなのだ。だいたい、加賀の絵を完成させるといったけれど、はたして、それだけの値打ちがあるのかね……。たしかに祖父の風景画は評価できる。祖父があみ出した手法によって、微妙な表現ができるようになったのだから……。問題はそれを引き継いだ父がいけない。父は人間の感情というものを、まったく無視してしまったのだ」
 男はおくする気配もなく言葉をつづけた。
「もちろん、父の絵が高い評価を得ていることはボクだって知っている。一時代を画した画家であるといわれていることも……。でも、ボクは評価しない。人間の血が通っていない絵なぞ芸術作品の端くれにもあてはまらない。少なくともボクはそうおもう。残された道は父の絵と決別して、求道の道を歩むことなのだ。いや、すでに歩みはじめている。嫌がるキミの気持ちを押さえつけて、勇気をふるわせているのはこのボクなのだ」
 男は鋭い目つきをして、握り拳をふるいながら、滔々とじぶんの考えを押しつけた。
 ふと、眞吾が視線を右に向けると、最初に発言した男が首をふっている。眞吾が発言をうながした。
「それはちがう。父は試行錯誤をかさねたあげく、ようやくのことで、いまの画風にたどりついたのだ」
 男がしゃべりおわらないうちに二番目の男が口をひらいていた。
「それは否定しない。画家である以上、試行錯誤をくり返すことはあたりまえじゃないか。でも、人間の心のなかをどのくらい掘り下げて考察したかとなると、疑問がのこるばかりだ」
 最初の男も負けてはいなかった。
「ほんとうの芸術作品は歴史のなかで淘汰されたものだけがのこっていくのだ。加賀の絵も歴史の淘汰に耐え抜いているじゃないか。でも、まだ盤石とはいえない。それを完璧なところまで到達させるのが、加賀の血をひいたボクらの役目なのだ」
「それはちがう。ほんとうの芸術作品は伝統のうえにあぐらをかいている作品を破壊することによって、生まれてくるのだ。たとえ、親の作品であろうと、いったんできあがった作品は壊される運命を背負っている。それを壊わすことによって、新しい道がひらけてゆく。そのためには、親子の絆も断ち切らなければならないのだ」
「伝統のおもみを否定して、親子の絆を絶って、はたして、どんな道がひらけるというのだ。手痛い傷を負って再起不能の陥るのが関の山だ」
「そんなことはない。戦わなくてなにが得られるというのだ。自分の力を信じて……」
 男はそういって、きりりとした目を眞吾に向けた。
 左に目を向けると、三番目に出てきた男が目に入った。男はあいかわらずおちついた風情をただよわせている。
「キミの意見も聞こうじゃないか」
 と、眞吾が発言をもとめた。
「ひとつだけ気になることがある」
「それはどういうことかね」
「自分の力を過信しているところだよ」
 男は平静をよそおいながらいった。
 二番目の男が反論に出た。
「過信はしていないが、信頼はしている。自分自身が信頼できなくて、どうして新しい道がひらけるというのか」
「りっぱなものだな。でも、ボクにいわせると、キミは常識をわきまえていない。父の意見にも耳をかたむけて、もっとひろい目で自分を見つめなおすべきだ。中道の道こそがまちがいがないのだ」
「キミの意見は聞くにおよばない。常識をこえたところから芸術の花はひらくのだ」
 二番目の男がとどめをさした。
 眞吾は最後の男に目を向けていた。あいかわらず、キョロキョロしている。それでも、視線があったので、発言を求めた。
「どれが正しいのか分らない。ボクはこのはなしに加わる資格がないようだ。みんな正論に聞こえてくるのだから……」
 男はおどおどした声でいった。
 眞吾は途方にくれた。自分の分身である四人の男たちがみなちがった意見をもっているのだ。眞吾はだれの意見を選択するか、にわかに決しがたいおもいに駆られた。

      4 

 眞吾は絵の制作に取り組みはじめていた。考えあぐねたすえに、夢のなかにあらわれて、みずからのすすむべき道をさずけてくれた男たちのなかから、ひとりだけを選ぶことにしたのだ。その選考の情景を一枚の絵にまとめているところである。
 すでに絵は完成にちかいところまでできあがっている。画面の右側には、四つの仮面が並んでいる。左側には、眞吾自身の姿がある。仮面にはそれぞれ紐がついていて、それらの紐は左側に描かれている眞吾のもとまで伸びている。その伸びている四本の紐を束ねて、絵のなかの眞吾が左手でしっかりと握っているのだ。
 四つの仮面には人間の顔が模写してある。それも同一人物の顔で、いずれも眞吾自身の顔を彷彿とさせる。だが、子細に観察すると、そのひとつひとつが微妙にちがっている。
 眞吾は完成まじかな絵柄を感慨深げに見つめている。
 眞吾の目がいちばん端の仮面に向けられた。素直な顔立ちをしている。最初に渦のなかから出てきた男の顔である。哀感が胸に迫ってくる。この男と一緒に暮らしてきた日々がおもい起こされた。
「二代つづいた絵の道を完成させることが加賀の血をひいた人間の役目ではないのか」
 と、涙ながらに訴えかけていたときの情景がよみがえっている。
「ボクもおなじ道を歩もうとおもっていたんだ。それがボクの役目だと信じて疑わなかった。うぬぼれているようだけれども、ボクにはそれだけの自信があった。それがいつの間にか、それではダメだという声がわきあがってきたのだ。それは必ずしもボクの考え方ともおもえなかったのだけれど……」
 眞吾は自分の心中を仮面の男に訴えかけた。だが、そういっておきながら、となりの仮面の男が気にかかった。視線を向けると、射るようなまなざしが眞吾の目をとらえた。
「父に弓をひこうとしているのはボクなのだ」
 夢のなかで男が告白した言葉がおもい起こされた。
 それに追い討ちをかけるように、
「芸術作品は破壊によって生まれるのだ」
 といった男の声がよみがえってくる。
 勘当を迫った遥峰に対して、挑戦的な態度でのぞんだ。そのときの情景がまぶたに浮かんでくる。
「すすむべき道を誘導しているのは、この男なのだ。でも、はたして、それでいいのであろうか」
 眞吾は独白した。
「この期におよんでまだ躊躇しているのか。もとの道に戻ろうというのか」
 眞吾には、男が容赦のない言葉で責めかかってくるようにおもえてくる。
 眞吾の目は最初の男のもとへそそがれている。遥峰のいいつけに唯々諾々としたがってきた日々が脳裏をかすめる。
 眞吾は視線をとなりに向けた。
 おちつきはらった仮面の男の顔が目にうつった。自分の力を過信しているのではないかと、さとした男である。ふっくらとしたごく平凡な顔つきをしている。それでいて、どこか含蓄の深さを暗示させている。だが、あまりにも自己主張がなさすぎるようにもおもえてくる。
 眞吾の目は二番目の仮面の男に戻っている。目の鋭さに圧倒されそうなおもいに駆られる。
「ボクと一緒にまえにすすもう。戦いに打ち勝っていこう、それがどんなに辛くきびしい道であっても……」
 眞吾は頭のなかで、男のいった言葉をくり返していた。
 眞吾の胸は信頼感で満たされていく。
 左端の仮面に眞吾の目が向けられた。うつろいやすい目つきをしている。
「ボクにはどれが正しいのか分らない」
 といった男の言葉がおもい起こされた。
「優柔不断な男だな」
 眞吾はひとりつぶやいた。
「えらそうなことをいうな。おまえだって、ボクのようなところがあるのだぞ」
 男がそうたしなめているようにおもえてくる。だが、すぐに、
「やはり、自分の道は自分で切りひらいていくのだ。それだけの覇気がなくてどうする」
 眞吾の心はそんなおもいで満たされていった。
 眞吾は絵筆を手にしていた。決断のときがきたことを自覚する。四つの仮面の男のうちで、ひとりだけを選ばなければならない。その場面を絵のなかで表現するときがきたのだ。
 眞吾はその四つの紐のうち自分の道づれにする仮面とつながっている紐だけをのこして、あとの三本は一刀両断のもとに切りすてようとしているのだ。
 描写がすすんで、のこすところは斧をふりおろすだけになっている。
 眞吾は絵筆をもって描写にかかろうとする。だが、筆がうごこうとしない。仮面の男たちのが、なにやら訴えかけてくるのだ。
 眞吾は仮面に見入った。
「まさかこのボクを切りすてはしないだろうな」
 と、いちばん端の男が悲愴な顔つきをしながらいっているようだ。
 いや、それは、といいかけて眞吾は口をつぐんだ。
 眞吾の目には男が涙にむせんでいるようにおもえてくる。憐憫の情が胸をしめつける。
「乗り越えろ、因縁を絶つのだ!」
 突如として、眞吾の胸に威厳にみちた声がとどろく。
 はっとして、視線をあげると、きりりとした男の顔が目に入った。
「絵の道はじぶんで切りひらくのだ。ボクにはそれだけの知恵もあれば、度量もある。一緒にまえにすすむだけだ」
 毅然とした男の言葉がよみがえってくる。眞吾はほっと吐息をついた。
 屈託のない顔つきが目に入った。男はゆっくりと首をふっているようだ。
「なにか不服でもあるのか」
 と、眞吾がかたりかけてみると、
 男はおもむろに口をひらいて、
「肝腎なことを忘れている。だが、自分の力を頼りにしているうちはわからない。絶対にわからない」
 といった言葉がおもい起こされる。
「みんな正しいことをいっているのだから、足して二になるような道を歩めといっているのですよ」
 左端の仮面の男がおどおどしながら口をはさんでくるような気がしてくる。
 男はしきりに目をパチパチさせている。眞吾がじっと見入ると、さっと、自分から視線をはずした。夢のなかの情景がよみがえってきたのだ。
「優柔不断な男と問答しているときではない。決断をするだけだ」
 眞吾を誘導している男が心のなかで厳命をくだした。眞吾は大きくうなずいた。
 絵筆がうごきはじめた。眞吾は四つの紐の描写にとりかかった。一本の紐がそのままのこされた。いま眞吾に厳命した仮面の男と結ばれている紐である。
 絵のなかの眞吾はのこりの三本の紐をしっかり握りしめている。
 いよいよ斧をふりおろすときがきた。
 眞吾はちらりと仮面に目を向けた。分身であった仮面の男が助けを求めているようだ。男の悲痛な叫び声が眞吾の耳をうった。反対側の男は真っ赤な顔をして目をパチパチさせている。三番目の仮面の男だけが平然とかまえている。だが、これ以上、仮面の男たちの心中におもいを馳せているときではなかった。
 眞吾は心をきめて斧で三本の紐を切りおとす場面の描写にとりかかった。
 ああ! という悲鳴がとどろいた。
 眞吾の絵筆がせわしなくうごきはじめている。いまの情景の細密描写にかかっていたのだ。
(了)

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神は死なない

 ローマは秋になっていた。わたしたちはバスの車窓から色づきはじめた街路樹の景観をながめながら、ヴァチカン見学にでかけた。バスをおりて前方を見つめると、サン・ピエトロ寺院の全貌が目に入った。カソリックの総本山にふさわしく整然としたたたずまいのなかにも厳粛なおもむきが感じられる。ひときわめだつのが円形の大聖堂である。その頂上には十字架が見える。わたしは天にむかってそびえたつ十字架に見入った。
 全員がバスからおりると、わたしたちはサン・ピエトロ広場にむかって歩みをすすめた。
「カソリックの人たちにとって、このヴァチカンはエルサレムとならぶ聖地なのです」
 日本人ガイドが説明をはじめた。わたしはガイドの声に耳をすませた。
「このヴァチカンは聖ペテロを抜きにしてはかたることができません。ペテロはイエス・キリストから最初の弟子に選ばれただけでなく、キリストから教会の指導者に指名されるほどに信頼があついひとだったのです」
 ガイドはヴァチカンの由来について解説をしている。そのあいだにも多くの人たちがサン・ピエトロ広場にむかって歩みをすすめていた。
「教会の指導者となったペテロは、晩年になってから迫害がたけなわであったこのローマにやってきたのです。そして、ペテロは信徒たちの先頭にたって布教につとめたのですけれど、それも志し半ばで残虐をきわめた暴君ネロの手によって殉教をとげています。その亡骸がこのヴァチカンの地に葬られたわけです。そのペテロの記念碑のうえに建っているのがあの大聖堂なのです」
 ガイドは大聖堂を指さしながらいった。わたしたちはいっせいにその方向に目をむけた。
「ペテロは殉教の道を歩んだわけですけれど、それもたんなる殉教ではなく、みずからすすんで逆さの十字架にかけられることをうけ入れたといわれています」
 ガイドは説明をくわえた。
「そのペテロの後継者がローマ教皇なのですね」
 観光客のひとりから声がかかった。
「そうです。ローマ教皇はペテロの意思をうけついで、キリストのおしえを全世界にひろめるために活躍をしているのです」
 ガイドはそこで黙してから、
「ペテロについて、ひとつだいじなことを忘れていました」
 と、口をひらいた。
「ペテロはたんなる聖人ではなかったのです。ガリラヤの漁師であったペトロはいつもイエスと行動をともにしていたばかりではなく、十字架にかけられ、葬られたイエスが復活をとげたときの生き証人としても知られているひとなのです」
 イエスの「復活」ということばがわたしの心をとらえた。
 サン・ピエトロ広場がちかくなるにつれてさらに多くのひとたちがいた。
「いつもこんなに多くの人たちで込みあっているのですか」
 わたしはガイドに声をかけた。
「いいえ、いつもはこんなにはいません。広場につきましたら、その理由を説明しましょう」
 ガイドは意味ありげにいった。
 広場につくと人々の数はさらにふくれあがっている。
「みなさんのなかには、こんなに多くの人たちがいることに疑問をもたれた方がおられるようですけれど、きのうはヴァチカンにとって特別の日だったのです」
 ガイドはそこでことばを切ってから、
「じつはマザー・テレサが聖人のひとつまえの福者の位にまつられることになって、それを祝う祝典が催されたのです」
 と、あらためて口をひらいた。
「それにしても多くの人たちですね、祝典がおわったというのに……」
 観光客のおどろきの声に、
「なにしろ四十万もの人たちがあつまったというのですからね。それもヨーロッパやアメリカばかりではなく、世界各地からやってきたのです」
 と、ガイドはことばをそえた。
 わたしは広場にあつまっている人たちのもとへ目をむけてみた。ガイドのいうように白人ばかりではなく東洋人や黒人の姿も見られる。視線をむけなおすと、インド系のひとの姿が目に入った。
 ガイドはひととおり説明をおえると、集合の時刻をつげて自由時間にするといった。
 わたしは歴史のおもさを感じさせる建物に目をやりながらゆっくりとした足どりで大聖堂の方向にむかった。
 歩いているうちにわたしはマザー・テレサの足跡におもいを馳せていた。
「この子のなかにもいのちがあるのです。キリストはこの子どもたちのためにも十字架の死をえらんだのです。だからこの子たちも神の愛にさずかる値打ちがあるのです」
 餓死寸前の子どもを抱きかかえながら慈しみのことばを投げかけているマザー・テレサの姿がまぶたをかすめる。
「この人たちのためにこそ神の愛はそそがれているのです」
 ライ病患者を抱擁しているマザー・テレサの姿が頭をよぎる。
 マザー・テレサが足を踏み入れたのはインドのカルカッタである。そこで彼女が見たものは貧しさのゆえにいのちをおとしていく子どもたちであった。感染症によって病に陥ったばかりか、偏見の目でみられているライ病患者であった。
「この生き地獄のカルカッタの地こそがわたしの生きるべきところなのです」
 マザー・テレサの叫び声が聞こえてくるような気がする。
 その誓いどおり、マザー・テレサは生涯にわたって貧困や偏見によって社会から葬り去られようとしている人たちに愛の手をさしのべつづけてきたのだ。
 わたしはふたたびサン・ピエトロ広場に目を向けた。広場をうめる人たちはさらにその数をましている。
「マザー・テレサは何年かあとには聖人の地位にあげられるといわれています」
 ガイドがいったことばがおもい起こされる。
「彼女は聖人にふさわしいわね。だからこんなに多くの人たちが世界各地から押しよせてくるのだわ」
 ひとりの観光客のことばにまわりの人たちもうなずいている。わたしもそのひとりであった。だれをおいてもマザー・テレサは聖人にふさわしいようにおもわれてくる。
――それにしてもマザー・テレサはみずからを捨てて、なぜあれほどまでに他人のためにつくすことができたのであろうか。
 ひとつの疑念が頭をよぎる。
 ガイドのいった「復活」ということばが耳をついた。
――マザー・テレサはキリストの復活を信じていたにちがいない。だからあんな生き方ができたのだ。
 わたしにとってそれはいつわりのないこたえである。
 感慨にふけりながら、広場の人たちに目をむけていると、
「おまえはユダではないか」
 と、わたしをせめる声がする。
「そのおまえがキリストの復活を口にするなんておこがましいじゃないか」
 その声は神の怒りようにおもえてくる。
 身におぼえがあるのだ。
 わたしは二十歳をすぎたころから厭世観にとりつかれ、それが高じて、死への恐怖におそわれるようになった。そんなときに偶然にも聖書のことばにであったのだ。
――すべて重荷を負って苦労をしている者はわたしのもとへきなさい。あなたを休ませてあげよう。
 この聖書のことばにせかされるようにして教会の門をたたいたのだ。そして、わたしは迷うことなく洗礼をうけてキリスト者としての人生を歩みはじめた。二十二のときのことである。
「あなたは父、御子、御霊の三位一体を信じて、クリスチャンとしての人生を歩むことを誓いますか」
 洗礼をさずけてくれた牧師のことばが聞こえてくる。
「救い主は死から復活されて神のもとへ帰られたのです。それも信じられますね」
 その問いかけにも大きくうなずいた。
 わたしは敬虔なクリスチャンとしての日々をおくりはじめた。日曜礼拝にはかかさず顔を出した。賛美歌を歌い、牧師の説教に耳をかたむけた。
「わたしたちは、どのような祈りをすればよいのでしょうか、という弟子たちのねがいにたいして、このように祈りなさいとキリストみずからおしえたのが主の祈りなのです」
 牧師の解説を聞いてから、
「天にましますわれらが父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ、御国を来らせたまえ、御心の天になるがごとく、地にもなさせたまえ……」
 と、心の底から主の祈りをささげたときの感動がながい歳月をこえておもい起こされる。
――死がまじかに迫ってくるのを予知されたイエスは弟子たちと別れの食事をしたのです。その食事の席で、パンをとって、これはわたしのからだであるといわれたのです。つぎに、ブドウ酒の盃をとって、これは多くの人たちのために流されるわたしの血であり、契約の血であるといわれたのです。そのうえで、イエスはわたしが死んだあとも、わたしの記念としてこのようにおこないなさいと命じられたのです。
 キリストは聖書のなかでいくつかの重要な遺言をのこしている。これもそのひとつである。この遺言にもとづいて行われるのが正餐式なのだ。わたしは月にいちど行われる正餐式を心まちにするようにまでなっていった。
「この正餐式はキリストの死と復活を記念する儀式なのです。それだけにキリストの復活を信じているわたしたちクリスチャンにとってはとてもだいじな儀式でもあるのです」
 牧師の祝福のことばをうけて、キリストの復活を信じることを誓いながら、パンを食し、ブドウ酒を味わった。
――そのおまえはとどのつまり復活のキリストを信じることができなかったではないか。
 心の底から自分をせめる声がわきあがってくる。
――復活のキリストが信じられなければ、三位一体をなす神の存在も、神のひとり子であるキリストも、ましてや聖霊の存在も信じられないに決まっているではないか。
 わたしをせめる声はつづく。
 そう問われれば弁解の余地はない。だが、信じようと努力したことだけはたしかである。なかでも聖霊の存在には大いに心を悩ませた。
――はたして、聖霊とはどのようなものなのであろうか。
 悩みにあけくれた日々のあとがおもい起こされる。
――父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとくおもい起こさせてくれる。
 福音書の一節が浮かんでくる。
 キリスト者に生きる道をさずけるのが聖霊だというのだ。
「わたしは聖霊に生かされています」
「聖霊なしでの生活は考えられません」
 何回となく聞かされたことばである。教会につどう多くの信徒たちは聖霊に導かれてキリスト者としての生活をしていたのだ。
 わたしは一日も、いや一時もはやく聖霊がやどることをねがった。だが、その願いもむなしく、わたしの心のなかには聖霊はやどろうとはしなかった。
「どうしたら聖霊がやどるのでしょうか」
 おもいあまったわたしは牧師に相談をもちかけた。
「復活のイエスを信じることです。そうすれば、イエスが救い主になったことがわかります。疑う心に聖霊はやどりません」
 有無をいわせないことばであった。
「幼子のようにきれいな心で祈りをささげれば、きっとキリストの御霊はあなたの心のなかにやどります。わたしたちはそのみちびきによって生かされていくのです」
 わたしをはげましてくれた老齢の婦人信徒のことばが聞こえてくる。
「このカルカッタの地にわたしをつかわしてくださったのは神なのです」
 老信徒のことばにマザー・テレサのことばがかさなっていく。
「いちばん貧しい人たちに仕えなさい」
 神の命を伝えるキリストのことばにひざまずいているマザー・テレサの姿が頭をよぎる。
「あなたのすべてを神にわたしなさい。そう神が命じているのです」
 そのキリストのことばに、
「わたしは神の命じるままに生きてまいります。自分をなくして、自分を見つけ出すのです」
 と、誓いのことばを口にしているマザー・テレサの声がする。
――マザー・テレサの心はいつも聖霊でみたされていたにちがいない。それにくらべて若き日のわたしは……。
 またもや、疑念のまなざしは自分自身にむけられていく。
――主は聖霊によりてやどりて、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみをうけ、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に……。
 礼拝の冒頭でとなえた使徒信条の一節がおもい出される。わたしは心の底から告白のことばをとなえたつもりでいた。それにもかかわらず、おとめマリアより生まれ……のところだけが頭にのこった。
――なぜ、そんな不遜な心を起こすのか。
 わたしは心中でみずからを叱責した。
――幼子のようになるのだ。神の子がおとめより生まれておかしいことがあろうか。
 懸命になって不遜な心を払いのけようとした。だが、そうおもえばおもうほど、心のなかのもうひとりのわたしが首をふりはじめるのだ。
 そうかといって、キリストのおしえから離れる気持ちにはなれなかった。それでいて、あらたな疑問が頭をもたげてくるのだ。
――はたして、救い主であるキリストは神なのか、人なのか、それとも……。
 わたしはこの問題でも頭を悩ませた。
――キリストは神のひとり子だという。そうならば、神であるのか。だが、キリストは人間としてこの地上に存在していたのだ。そうならば、人間であるといってもおかしくはないではないか。
 堂々めぐりをしながら、おもいをめぐらせる日々がつづいた。そのうちにこの問題にどう決着をつけるかがキリスト教の歴史のなかでの大問題であったことがわかった。
 日曜礼拝のあとで、親しくしていた信徒のひとりを誘って議論したことがあった。
「キリストは神なのか、人間なのか」
 わたしの問いかけに、
「キリストは神なのだ。でもただの神ではなく、人間でもあるのだよ。それはもう決着がついていることなのだ」
 と、信徒はこともなげにいった。
「そう、表面上はたしかに決着がついているんだ。おえら方の聖職者たちがあつまって宗教会議をひらいて決めたということじゃないか」
 わたしはおぼえたての知識をまくしたてた。
「神でもあり、人でもあるんだよ。的を射ているではないか。まさに中庸の妙というところだな」
 信徒はひとりうなずいた。
「でも、それからも問題がつづいたらしいじゃないか」
「……」
「異をとなえる者たちがあとをたたなかったばかりか、それからも異端にたいする弾圧の歴史がつづいたといわれているではないか」
「そうなのか。オレにはよくわからんよ」
 信徒は首をふった。
「キリスト教って不思議じゃないかい。信仰の核心部分がグラついているんだよ。神の子であるキリストが十字架にかかって、復活をとげて、永遠の命をさずかるなんて、パラドックスにみちているじゃないか」
「おまえ、キリスト教のあら探しをしているのか。そんなことは学者にまかせておけばいいのだよ。おまえはクリスチャンじゃないのか」
 信徒の怒りの声が聞こえてくる。
 それでもわたしの疑問は消えそうになかった。キリスト教の信仰体系はその骨格において、論理思考からの反論に太刀打ちできないようにおもわれて仕方がなかったのだ。
 それでもわたしは何年にもわたってキリスト者としての生活をおくりつづけた。教会にも顔を出していたし、聖書もよみつづけた。そればかりか、クリスマスがちかくなると、バッハのマタイ受難曲にも聞き入った。キリストの受難をかなでる旋律がいまでも心の底にのこっている。
 それなのに、あるとき耳にしたひとことがわたしを教会から遠ざけるきっかけをつくったのだ。
「神は死んだ」
 ニーチェのことばである。
 これほど説得力に富んだことばを耳にしたことはなかった。
 いままでキリスト教をささえてきた復活のキリストと三位一体の論理が説得力をうしなって、なりたたなくなったというのだ。
 わたしが教会をあとにしたのはそれからまもなくのことである。
――それでも地球はうごいている。
 ガリレイのいったことばがおもい起こされる。みずからのとなえた地動説が神のおしえに反するとして、異端者の汚名をきせられたばかりか、幽閉生活をよぎなくされたという。それなのに、神への反逆とうけとれるニーチェの言動にたいしては、反発の声があがったものの、弾圧をくわえるだけのひろがりはみせなかったようである。
 わたしは歩みをすすめて、サン・ピエトロ寺院の大聖堂の入口まできていた。中央の入口から一歩足を踏み入れると、大聖堂の内部を見わたすことができる。さすがに世界最大の宗教建築物だといわれるだけあって、その規模の大きさには圧倒されるおもいがする。そのうえ、寺院に特有の荘厳と神聖な雰囲気にみちあふれている。
 わたしはそのおごそかな雰囲気のなかをまえにすすんだ。そこでは多くの人たちが祈りをささげている。さらにまえにすすむと。ペテロの記念碑のうえにたてられている大きな祭壇と天蓋にゆきついた。ここにも多くの人たちが群がっている。
 ひととおり内部を見学したわたしは入口の方向に足をむけた。前方の一か所だけに人だかりがしている。近づいてみると、ミケランジェロが大理石でつくった「ピエタ」である。聖母マリアが死せるキリストを両膝のうえにのせている。悲痛ななかにも神韻にみちた聖母マリアの姿がわたしの目をとらえた。天才ミケランジェロならではのマリア像である。それにくらべてキリストはやせ細って、いかにもみじめそうな姿に仕立てられている。
 大聖堂をあとにしたわたしは、となりのシスティーナ礼拝堂に足をむけた。ここは教皇の公式な礼拝堂で、重要な宗教儀式が行われるところであるが、わたしがおとずれたのは別の目的からである。
 ここも一歩足を踏み入れると多くの人たちで身動きができないくらいである。そのなかをわたしはどうにかなかほどまですすむことができた。そして、視線をうえにむけたわたしの目にうつったものは、壁一面に描かれているミケランジェロの「最後の審判」である。わたしはこの壁画を見るためにここに足をはこんだのだ。
 最後の審判はキリスト教の終末思想の核心をなすものである。最後の日に審判者としてあらわれるキリストが、死者までもよみがえらせて、神の意思にかなった生き方をしたかどうか、救済と懲罰とをもって判定をくだすというのだ。その具体像がミケランジェロの天才技によって描かれているのだ。わたしの目はその壁画に釘付けになった。
 壁画のなかには何百人もの人たちが恐れや不安の表情をあらわにしながらうごめいている様子がリアルに描かれている。その壮大な構図の中心にいるのが審判者であるキリストなのだ。となりには聖母マリアの姿も見える。左側に目をむけると、救済されて天に昇る人たちの姿がある。右側には懲罰をうけて地獄に引き立てられていく人たちの姿が見られる。そのなかでひとりキリストの姿だけがかがやいている。大聖堂のなかの彫像からは想像もできないくらい若くて凛々しい姿に描かれている。それは人間復興を彷彿とさせるものであるが、それよりも、わたしの脳裏をよぎったのは人間キリストということであった。
 すさまじいばかりに神の怒りをあらわしているこの希有の壁画を目のあたりにしていると、
――これまでにどのくらいのキリスト者が恐怖と不安のうちにこの壁画を目にしたことであろうか。
 とのおもいに駆られる。
「わたしはキリストの救いを信じます。聖霊のおもむくままの人生を歩みます」
 と、みずからの信仰を誓いなおす信徒たちの声が聞こえてくるようだ。
――でも、それはかってのことで、いまはちがうのではないか。
 わたしの心のなかにはべつの疑念がわきあがった。
――いまでも最後の審判を信じている人たちがどのくらいいるのであろうか。
 疑念はさらにふくらんでいく。
――いまでも信じているキリスト者はかなりの数にのぼるであろう。でも、全体からみればそれほどの数ではないのではないか。
 そこにわたしの結論はおちついた。
――それは最後の審判だけではなかろう。
 あらたな疑念が頭をよぎる。
――キリストの復活にしても、三位一体の教理にしてもおなじではないのか。
 その結論もおなじであった。
――それではキリスト教は衰退の一途をたどるのであろうか。
 わたしはキリスト教の行く末におもいを馳せながらシスティーナ礼拝堂をあとにして、ふたたびサン・ピエトロ広場にむかった。
 あいかわらず、サン・ピエトロ広場は多くの人たちでみちあふれている。
 わたしは立ちどまって、その景観を見つめた。そのうちに、
――衰えたといってもいまでもキリスト教をしのぐ宗教はないではないか。いや、そればかりではない。これからもずっと大きな力をもちつづけていくのではないか。
 とのおもいにおちついた。
 それは不思議なおもいでもあった。神は死んだということが抵抗なくうけいれられる時代になってもキリスト教が絶大な力をもちつづけていることが理不尽のようにおもえてくるのだ。だが、しばらくすると、それを打ち消すように、忘れたはずのキリスト教へのおもいがあらたな息吹をともなって、三十数年ぶりにわたしの心のなかによみがえってくるのだ。
――宗教は論理の思考を超越したところに存在しているのだ。
 そんなおもいに駆られていく。
 キリスト教は多くの矛盾をかかえながら生きつづけている。それを象徴しているのがキリストは神なのか、人なのか、という問題である。キリスト教の歴史はこの狭間のなかでゆれうごいてきた。
――それは矛盾しているようにおもわれるけれど、それが反面では選択肢を与えてきたのではないか。矛盾をかかえながらもいくつかの選択肢があることが、かえってキリスト教をここまで発展させるうえでの起爆剤になってきたのではなかろうか。
 そのおもいはわたしの心のなかでさらにひろがっていった。
――キリストはまた神にもどるのではないか。いや、すでにもどりつつあるのではないか。
 わたしはキリストを神の目で見つめなおしてみた。
――キリストが神ならば、復活も三位一体も、処女懐胎も抵抗なくうけいれることができるではないか。
 わたしがキリスト者であったときとは時代背景がちがっている。その当時とは比較にならないくらい心の構造があきらかになっている。人間の心は何層もの層からなりたっていて、奥のほうは深層心理をつかさどる層があるともいう。
 わたしはおもいをめぐらせた。
 人間の心には超越性をもとめるはたらきがあるといわれている。その超越性は心の表層にある論理思考をとおりぬけて深層心理とつながっているという。
――だからこそ、われわれは神話や伝説さらには童話に心をうばわれるのではないのか。
 そのおもいは抵抗なくわたしの心のなかにおちていった。わたしは旧約聖書のなかの物語におもいを馳せた。
――はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」といわれた。すると、光があった。
 天地創造の冒頭のくだりである。現実性のないこの物語も、神話とおなじような視点で、信仰の書としてよむならば、大きな意味をもっているようにおもわれる。
「あなたと家族とはみな箱船にのりなさい。……」。
 おなじようにノアの箱船の物語にも深い意味あいが感じられる。
 新約聖書のなかのイエスの奇跡のはなしが脳裏をかすめる。
ひとりのらい病人がイエスのところに願いにきて、ひざまずいていった。
「みこころでしたら、きよめていただけるのですか」
イエスは深くあわれみ、手をのばして彼にさわり、
「そうしてあげよう、きよくなれ」といわれた。すると、らい病がただちに去って、その人はきよくなった。
 イエスが死人をよみがえらせる場面、嵐をしずめる場面、さらには一個しかなかったパンをふやして数千人にたべさせる場面などがつぎつぎと浮かんでくる。
 これらも信仰という目から見ると、真実とよみとることができるようだ。
――キリストは多くの人たちの心のなかで生きつづけていく。
わたしはそんな心境におそわれていく。そのわたしのおもいに逆らうように、
――これ以上キリスト教の横暴をゆるしてはならない。
 と、心のなかから怒りの声が起こる。
――あなたの右頬をうつひとがいたならば、左の頬もむけてやりなさい。
 聖書のことばが頭をよぎる。
――はたして、いまのキリスト者にそんな寛容の心をもっているひとが、どれほどいるというのか。
 そういわれてみると、大いにうなずける。多くの国々のキリスト者の心のなかから寛容の精神がぬけおちているようにおもわれる。
――自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。
 隣人愛はキリストのおしえのなかでもきわめて重要である。だが、現実にはキリスト者でありながら自分たちの利益だけを追い求めている人たちが多いようだ。
 わたしは頭をさげるしかなかった。
――キリスト教はその根底から変質をしてしまったのであろうか。
 そうおもいながらわたしはふたたび広場をうずめつくしている人たちのもとに視線をむけた。
――この人たちはマザー・テレサのどこにひかれてここまでやってきたのであろうか。
 そのこたえは容易に見出だすことができた。無償の愛である。それが多くの人たちをこのヴァチカンの地にひきよせたのだ。
――そのマザー・テレサの無償の愛はどこから生まれてきたのであろうか。
 わたしはおもいをめぐらせた。
――それはキリストをつうじて神から与えられたのだ。復活のキリストを前提として三位一体がなりたっている。その教理が一本の木であるとすれば、その木からもたらされる果実が無償の愛にほかならない。
 わたしはそんなおもいに駆られる。
 わたしたちは心の深層で超越者をもとめている。その機能は人間が人間である以上は未来永劫にかわることはないであろう。
――神は永遠に存在する。
 そんなおもいにゆきつく。
――愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。……。
 わたしの脳裏には聖書のなかの愛の賛歌が浮かんだ。
 愛の本質をあらわしている。エロースの愛ではなく、アガペーの愛である。エロースの愛が自己中心的で見返りをもとめるのにたいして、アガペーの愛は無償なのだ。マザー・テレサはこの無償の愛に全生涯をささげたのだ。
 わたしは広場をうずめ尽くしている人たちを見つめなおした。
「これらの人たちのこころのなかには無償の愛がしっかりと根づいているにちがいない。そうであるならば、キリスト教はこれからも発展をつづけるのではなかろうか」
 わたしはひとりつぶやいた。
 ふと、わたしは時計に目をやった。集合時間が迫っている。
 わたしはもういちどサン・ピエトロ広場をうずめつくしている人たちのもとへ視線をむけてからヴァチカンをあとにした。
                                    (了)


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デクノボー

 日中ほどの暑さではないものの、いまだ上野駅の構内は熱気でむんむんしていた。八月の夕暮れどきのことである。そのなかを大きなトランクをもった宮沢賢治は額に汗をにじませながら東北線のホームにむかっている。途中の売店で駅弁を買い求めると、賢治はその足で夜行列車にのり込んだ。八か月ぶりで、郷里の花巻へ帰るところなのだ。きっかけは妹のトシが病気で寝込んでいるとの知らせをうけたからだ。だが、賢治にはふたたび上京する意思はなく、そのまま花巻にとどまることに決めていた。
 列車はほぼ満席の状態であったが、運よくなかほどにひとつ空席があった。賢治は空席のところまでいくと、おもいトランクを網棚のうえにのせてから、そこの席に腰をおろした。そして、額から吹き出る汗をぬぐいながら、車窓のとなりのホームに目をむけた。八か月まえに下り立ったホームである。そのときの情景がまぶたをかすめる。賢治は家出同然に花巻の実家をあとにしてきたのだ。夜行列車を降りてホームに立ったときの熱いおもいが脳裏をかけめぐる。賢治は希望に燃えていた。
 それが八か月あまりの滞在で希望の地であった東京をあとにしようとしている。だが、賢治には悔いはなかった。妹の病状は心配でならなかったが、賢治の心のなかには上京したときとは別の希望が燃えつづけている。
 賢治は網棚においたトランクに目をやった。
 汽笛の音がすると、列車はにぶい音をたてながらホームをはなれてゆっくりと北へむかって走り出した。賢治は車窓から暮れなずむ東京の町並みに目をむけた。そのうちに東京へ出てきてからの八か月の月日がおもい起こされた。
「みなさま方、この日本を救うおしえは法華経をおいてほかにはありません。ほんとうの幸せをつかむには、心のなかに大きな柱を建てることです」
 堂々とした風格の男が道をゆく人たちにむかって説法をしている。
「日蓮聖人の心のなかには法華経という大きな柱が建っていたのです」
 威厳にみちた男の声がつづく。男のまわりには随行の人たちがいる。そのなかのひとりに賢治がいた。賢治は真剣なまなざしで男の説法に聞き入っている。
 上京した賢治はその足で田中智学(ちがく)が主宰する国柱会(こくちゅうかい)という在家の宗教団体に入会したのだ。国柱会は日蓮主義による世界統一をかかげて活動をしている団体である。賢治は日蓮のおしえを継承している智学の思想に共鳴していたのだ。
 国柱会に入った賢治はさっそく智学と行をともにした。そのなかのひとつが折伏(しゃくぶく)である。自らが信じているおしえの真髄を大衆に浸透させていく手法が折伏なのだ。
 賢治は智学が実践する折伏の光景を羨望のまなざしで見つめていた。そのときの情景がおもい起こされたのだ。
「おのおの方、足をとめられよ。法華経だけが真実のおしえなのです。念仏を信じるやからは無間地獄におちますぞ。極楽などどこにもありませぬ。この世こそが極楽の世界なのです」
 鎌倉の辻に立って折伏にいそしんでいる日蓮の姿が賢治の脳裏をよぎる。
「このクソ坊主がまた念仏の悪口をほざいているではないか」
 道行く人たちのなかから反発の声があがる。そればかりか、小石を投げつける人たちもあらわれる。それでも日蓮はひるまない。小石にあたって額から血を流しながらも、
「法華経だけが釈迦のおしえなのです。禅は天魔のおしえですぞ。真言も亡国のおしえにすぎませぬ。律などは国賊のおしえにもおよばぬ」
 と、激しい口調でほかの宗派を攻撃する日蓮の姿が迫ってくる。
 日蓮にはおよばないまでも、せめて自らが身をあずけた智学くらいにまで折伏の技量をみがくことが賢治の布教活動の最大の目的となっていった。それを実践するためにおもい切って、大衆のまえで法華経の功徳を説いてみた。だが、いくら頑張ってみても、口ごもって、まともな説法になりそうもなかった。
 おもいあまった賢治は下足番などの下働きに精を出すことにした。それとともに賢治にはもうひとつのことが日課になっていた。
「キミは熱心だね。それを書いてどうするつもりなのかね」
 賢治の部屋に顔をだすなり高知尾(たかちお)智(ち)耀(よう)がいった。智耀は田中智学の高弟である。
「これを書いていると、不思議なことに気持ちがおちつくのです」
 賢治は暇を見つけては童話を書いていたのだ。
「いずれは世に出したいという気持ちがあるのだろう」
 智耀がさぐりを入れるような口ぶりでいった。
「いえいえ、そんな代物ではありません。いずれも迷いのあとですから……」
「それじゃなんのために書いているのかね」
「法華経の行者になるためです。おなじ行者になるにしても、ボクはみなさんのように、人前でうまく喋ることができませんからね」
 智耀はうなずいたあとで、しばらく黙していたが、
「ひとにはそれぞれ得手不得手があるもんだよ。おなじ菩薩道を歩むにしても、なにも折伏だけが行者の道ではないからな」
 と、さとすような口ぶりでいった。
「……」
「はっきりいって、キミの性格は折伏にはむかないよ。はにかみ屋だからな。それに東北弁じゃないか。でも、オレはキミを見捨てはしないよ。キミにはかくれた才能があると信じている。童話だっていいではないか。その道を探求するのも立派な菩薩道だよ」
 賢治は智耀のいったことばを反芻している。賢治にとって智耀はただひとり心を許せる先輩であった。その智耀からうけた忠告はずしりと賢治の心のなかにおちていった。それからというものは、寸暇を惜しんで原稿用紙とむかいあった。多いときには月に三千枚もの草稿をものにしたこともある。
 賢治は網棚のうえのトランクに目をうつした。なかには書きかけの童話の草稿がぎっしりつまっている。いまだ満足のゆく作品はないものの、作品のめざすところははっきりしている。賢治は法華経の世界を探求して、そこから得られた成果を童話のなかに結晶させることに夢をたくしたのだ。
 ものおもいに耽っているうちに、窓の外はすっかり暗くなっていた。列車はときおり汽笛の音をひびかせながら、ゴトン、ゴトンと一定の間隔で鈍い音をたてながら北にむかって走っている。
 車内を見わたすと、みなおもいおもいの行動をとっている。話しあっている年配の乗客もいれば、本を読んでいる若者もいる。なかには駅弁を食べている乗客もいる。その様子を見ていると、賢治もにわかに空腹をおぼえた。かたわらに置いてある駅弁を膝のうえにおくと、さっそくひろげてみた。焼き魚と野菜が目に入った。賢治はカボチャから手をつけた。人参も口にはこんだ。独特の風味が口のなかにひろがっていく。
 母の面影が頭をかすめる。家族で夕食をとっている光景である。食卓のうえには母のつくったカボチャと人参の煮物がある。賢治はことのほか野菜を好んだ。
 父の姿が浮かんでくる。食卓の真ん中には父が坐っている。その父をかこむようにして家族が坐っている。
「それはだめだ。どんなことがあってもだめだ」
 父の威厳にみちた声が耳をついた。夕食がおわって一段落したときのことだ。賢治は父に改宗を迫ったのだ。賢治の家の宗派は浄土真宗である。それも父の政次郎は地元では篤信家としてしられている。
「何代にもわたって守ってきた浄土真宗の法灯をわたしの代でおわらせるわけにはいかない」
 顔を紅潮させていた父の形相がよみがえってくる。
「ほかのことなら、お父さんの意見にしたがいますけれど、これだけはしたがうわけにはまいりません」
 賢治もひきさがる気配さえみせない。
「おまえだって、小さいころから浄土真宗のおしえに親しんできたではないか」
 政次郎はしんみりした口調になった。
 賢治の脳裏には叔母のヤギの顔が浮かんだ。
 政次郎のいうように賢治は幼いころから浄土真宗のおしえが凝縮されている「正信偈(しょうしんげ)」や浄土真宗の信仰のあり方を平易に説いた「白骨(はっこつ)の御文章(ごぶんしょう)」を叔母に抱かれながら子守歌のように聞かされて育った。
 つぎからつぎへと父との確執のあとがおもい起こされていく。
「いまだって正信偈は暗記しています」
「そればかりではないだろう。暁烏(あけがらす)先生のお話もうかがったではないか」
「はい、先生からは歎異抄(たんにしょう)のお話をうかがったことがあります。そればかりか、いっしょに遊んでもらったこともあります」
 花巻仏教会の重鎮である政次郎が中心になって歎異抄を世の中にひろめている宗教家の暁烏敏(はや)を花巻の郊外にある大沢温泉に招いて夏期仏教講習会をひらいたことがある。賢治は政次郎に連れられて、その講習会にも参加したのである。
「おまえはそのあとも歎異抄をよく勉強していたではないか」
「たしかに勉強しました。弥陀(みだ)の請願不思議ということもわかりました。悪人こそが救われるのだということも合点がいきました」
「そのおまえがなぜ浄土真宗を捨てろというのか」
 政次郎は眉間に深い皺をよせた。
「永遠のおしえにめぐりあったからです。このおしえをおいて、ほかにはおしえなぞありません」
 賢治は毅然としていいはなった。
――釈迦の入滅は人々を救うための方便であって、真実には生まれることも滅することもない……。
 賢治の心には法華経の一節を目にしたときのあの魂をゆすぶられた感動がよみがえってくる。
 それまではたとえ、意見があわなくとも、最後は政次郎の意見にしたがった。
「質屋はやめてもらうわけにはまいりませんか」
 賢治は家業の質屋を廃業するように迫ったことがある。貧しい人たちから高利をとることが賢治にとっては耐えられなかったのだ。
「なにも法外な利息をとっているわけではない。お客だってそれを承知でくるんじゃないか。それよりもこの商売がなければ、こまる人たちだっているんだぞ」
 賢治はそれ以上に反論はしなかった。だが、改宗の件だけは妥協するわけにはいかなかった。
「わたしの心のなかには親鸞聖人のおしえが身に染みているんだ。煩悩にまみれた身の上であっても、南無阿弥陀仏をとなえるだけで悩みの渦中から救い出してくれるんだ。こんなありがたいおしえがほかにあるというのか」
 政次郎はがんとして賢治の願いをかなえようとはしなかった。
「救い出してくれるといっても、それはボクらと阿弥陀さまの関係だけじゃないですか。たしかに阿弥陀さまの本願は煩悩が燃えさかっている人たちを救ってくれるありがたいおしえではあります。でも、しょせんはボクら一人ひとりが救われるだけではないですか」
 口下手な賢治がこのときばかりはまるでひとが変わってように反論に出た。
「それでいいではないか。弥陀の本願を信じる人であるならば、老いたるひとも、若いひとも、ましてや善いひとも、悪いひとも区別することなく救ってくださるのだから……」
「それはほんとうの救いではありません」
「それではおまえのいうほんとうの救いとはどのようなものなんだ」
 政次郎が語気をつよめた。
「ほんとうの救いとは、みずからを犠牲にしてほかの人たちを救うことです。キリストは自分のいのちを犠牲にして多くの人たちを救ったではありませんか」
「なんだ、おまえはキリスト教も信じているのか」
 政次郎は目を見ひらいて賢治を見つめている。
「信じてはいません。肝心なところがちがうのです」
「……」
「キリスト教の神は造物主です。すべてのものはこの神によって造られたといっています。生きとし、生けるものだけではなく、この地球ばかりか、宇宙の果てまでもが……」
「そりゃそうだろう。仏教を信じている人間がキリスト教を信じられるわけがなかろう」
 政次郎の顔がなごんだ。
「キリスト教では、神が自分に似せて人間を造ったばかりか、その自分が造った人間にこの世の中を支配させるのだといっています。ボクのうけ入れるところではありません」
「親鸞聖人のいっていることが正しいんだよ。聖人はこの世の中を不可思議な世界だといっておられる。わたしもおまえもなぜこの世の中に存在しているのか、そんなこといくら詮索してもわかるわけがない。与えられた世の中なのだよ。この地球もそうだし、われわれのいのちもからだもすべて不可思議な世界から与えられているんだ」
「ボクもながいあいだそのようにおもってきました。それこそが仏のおしえであると信じてきました」
「それでいいではないか。与えられたいのちではあるけれど、世の中はそんなにうまくはゆかない。残念なことに煩悩を背負ったまま生きていかなくてはならないのだ」
「それを救ってくれるのが阿弥陀さまだといいたいのでしょう」
「そうだ、南無阿弥陀仏を唱えれば、願いがかなえられるんだよ」
「それをいうなら、南無妙法蓮華経です。お題目をあげれば仏の世界がわかるのです」
「いや、南無阿弥陀仏だ。この念仏によってどのくらい多くの人たちが救われてきたか、おまえは知っているのか」
「知っています。でも、それは真実のおしえではありません。もっといのちの根源にある仏に目をむけるべきです」
「わたしにとって、仏とは阿弥陀さまだけだ。念仏の信心を深めて死んだあとは阿弥陀さまに導かれて極楽往生をすることを願っているんだ。それなのに念仏のおしえを糾弾した日蓮のおしえに改宗しろというのか、おまえのような親不孝ものはいない」
 政次郎はするどいまなざしをむけた。
「なにも、日蓮聖人は好き好んで折伏したのではありません。末法の時代に多くの人たちを真実のおしえに導くためにはほかの宗派のおしえは破折(はしゃく)せざるをえなかったのです」
「おまえには折伏はむかない。気持ちがやさしすぎるのだ。おまえはもっとほかに生きる道がある」
「いえ、心ざしさえしっかりもっていれば、折伏だってできます」
「いや、無理だ」
 平行線をたどるばかりの政次郎との対話もついに終止符を打つときがきた。
「こうなったら、自分の道をすすむだけです」
 賢治は政次郎のまえで宣言した。その言葉どおり上京して国柱会に入会したのだ。だが、結果は政次郎の危惧が現実のものとなりつつある。
 あい変わらず、列車は北にむかって走りつづけている。ふと、賢治が窓のそとに目をむけてみると、沿道の灯がまばらに見えるだけになっている。
 賢治は視線を窓のそとにむけつづけている。賢治の目が星をとらえた。無数の星が夜空にかがやいている。星ばかりでなく銀河も見える。
 賢治はひとつ大きな深呼吸をしてみる。吐く息と吸う息とが眼前にひろがっている宇宙とつながっていることが実感としてわかる。
「釈迦は釈迦族の王子であったのだよ。その釈迦が出家して、仏道の修行に励んだのちに伽耶(かや)城(じょう)の近くの菩提樹の下に坐って悟りをひらいたあとで入滅したといわれているんだね。でも、それは多くの人たちを法華経のおしえに導くための手段であったのだよ」
 賢治の耳にひとりの男の声が聞こえてくる。島地(しまち)大(だい)等(とう)という盛岡の僧侶の声である。大等は僧侶ではあるが、すぐれた仏教学者としても知られている人物なのだ。
「宇宙が大生命体ならわれわれ一人ひとりの存在は小宇宙なのだ。釈迦は法華経のなかでそれを説いているのだよ」
 賢治は盛岡の中学に在学していたときに大等の話を聞く機会があった。そのときに大等がさずけてくれた言葉が耳をつく。
 賢治の脳裏には赤表紙の一冊の法華経が浮かんでいる。表紙には、『漢和対照 妙法蓮華経』と記されている。その下には島地大等という著者の名前がある。
 そのときの話だけでは飽きたらずに賢治は大等の書物を読むようになっていった。法華経の寿量品(じゅりょうほん)の一節を目にしたときの感動が迫ってくる。
――衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃(ねはん)を現ず、しかも実には滅度せず、常にここに住して法を説く。
 浄土真宗のおしえしか知らなかった賢治にとって、寿量品の一節はまさに目から鱗がおちるようなおしえであった。
――自らを灯明として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を灯明として、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
 釈迦が入滅にあたってのこした言葉である。この釈迦の遺言を解き明かすために悩んだ日々がおもい起こされる。
 自らを灯明とするとはどのようなことであろうか、法を灯明として、真理をよりどころにせよとは、はたして、どういうことなのであろうか。
――ことによると、真理とは……。
 賢治の頭のなかでひらめくものがあった。
 そのおもいは深く賢治の心をゆさぶった。法を灯明にして、ということも心のなかで氷解していった。おのずと自らを灯明として、ということも心のなかにおちていった。
「先生、真理ということは、永遠の仏陀のことではないでしょうか」
 賢治は自らが解き明かした釈迦の遺言について島地大等に問いかけてみた。
「そう、よくわかったね。それがわかれば、あとはおのずからわかってくるね」
 大等のことばに無言でうなずいた。そのときの満ち足りたおもいがふたたび心のなかをかけめぐっていく。
「法というのは法華経のことだね。なかでもなによりも大事なことは、釈迦は久遠の昔からいまの世までずっとこの世にあって、おしえを説かれているということだよ」
「それは釈迦だけではなく、ボクたちも釈迦とおなじ境涯あるということですね」
「そのとおりだよ。釈迦のいのちが永遠に不滅ならわたしたちのいのちもおなじように永遠不滅なのだよ」
「それをみずから体得することが法華経の行者の生きる道なのですね」
 賢治はふるえる声でいった。
「そこが肝心要だね」
 そういって、にっこりと笑った大等の温和な顔がよみがえってくる。
 賢治はなおも大空に目をむけつづける。満天の星空である。そのとき賢治の目をよぎるものがある。賢治は目を凝らした。ひとつの流れ星があらわれて消えていったのだ。
 目を凝らしていると、流れ星とは無関係に無数の星がかがやいているのがわかる。賢治は宇宙の果てにおもいを馳せている。ひとつの星が消えてもまた新しい星が生まれてくる。自分のいのちもおなじではないか。ひとつのいのちが消えても、またべつの縁と結びついてあたらしいいのちが生まれてくる。
――それは人間だけではない。生きとし、生けるものすべてが輪廻転生をくりかえしているにちがいない。
 賢治はそんな感動に打たれる。
――このボクは小宇宙なのだ。
 賢治はあらためてそんな感動をおぼえる。
――いのちばかりではない。大宇宙から心もいただいている。
 賢治のおもいは法華経にむけられていく。
「われわれの心のなかには六道が宿っているのです。人間の心ばかりではなく、愚かな畜生の心も、貪り餓鬼の心も、怒りの地獄の心もあります。あるばかりかいつも共生しているのです。それが縁によって表面にあらわれてきます。そこからのがれるために、仏の心をもてというのが法華経のおしえなのです」
 街頭で法華経のおしえを説いている高知尾智耀の言葉が耳を打つ。賢治に童話の道を歩めとさとしてくれたひとである。
「いくら地獄や餓鬼や畜生のうえにある人間の心をよりどころとしても、しょせんは欲の世界から離れることはできません。だけど、幸いなことに、わたしたちの心のなかには仏の心もそなわっているのです。そこに目覚めるべきです」
 智耀の言葉が執拗に迫ってくる。
 賢治は自らの心のなかにも仏の心が宿っていることを自覚している。だが、同時に賢治の心のなかには、いままでどおり、地獄の心も、餓鬼の心も、人間の心もそなわっている。それらが渾然一体となって心のなかに渦巻いていることも知っている。
 もとより、欲の世界を捨てることはできない。だが、賢治のよって立つところは仏の心なのだ。もはや、六道が頭をもたげてきても、やがては仏の心におちついていく。そんな境涯を賢治は理想としている。それを自らが悟るばかりでなく、多くの人たちに悟らせることが賢治にとっての最大の課題となっていった。
――仏の心がわかったからには、菩薩道を歩むのだ。ひとの心は変わるけれど、法華経の心は変わることはない。
 賢治は心のなかに宿っている仏の言葉におされて、法華経の行者の道を歩みはじめた。それも折伏ではなく、文学の道である。熱いおもいを胸に秘めてその道を歩みはじめている。
 ふと、夜空を見つづけている賢治の目をかすめるものがある。一匹の鳥の姿である。賢治はなおも目を凝らしつづける。風采のあがらない姿をしている。なおも目を凝らしているとよだ(・・)か(・)であることがわかる。
 よだかは翼をひろげながら全速力で大空を上にむかっていく。それを追いかけている鳥の姿が賢治のまぶたにうつる。それはまぎれもなく鷹である。よだかは鷹におわれているのだ。いつしか鷹からのがれたよだかはそのまま天空をかけあがっていく。
 耳元まで裂けているような大きな口をあけている。その口で空中を飛びかっている虫を食べているのだ。
「ボクはいままでどのくらいの虫を食べてきたのであろうか」
 よだかの嘆きの声が耳をつく。
「ボクのいのちは虫たちの犠牲のうえになりたっている。それなのにボクは自分の身を鷹に与えようとはしなかった」
「わたしは飢えた虎に自分の身を与えたことがありますよ」
 よだがに変わって、釈迦の声が耳を打つ。
――生きとし、生けるものはお互いに自分たちのいのちを犠牲にしあいながら生きているのではないか。
 賢治は車内に視線をうつした。乗客たちのなかには眠りについているものもいる。だが、賢治は気持ちが高ぶって、眠気とは無縁の状態にある。
 車内を見まわしているうちに、ひとりの老婆の姿が目に入った。老婆は身をかがめて眠りについている。賢治の目には、その老婆がいまは亡き叔母の姿とかさなっていった。
「むかしひとりの猟師がいたのだ。猟師は熊を殺して生活をしていたのだよ」
 幼いころ叔母から聞かされた話がおもい出された。
「猟師はな、ほんとうは熊を殺したくはなかったんだ。でも、そうしなければご飯を食べることができなかったのだよ。だから、猟師は熊の皮を町に売りにいくときには、いつも熊よごめんなといってから出かけていったんだ」
 叔母の話を目を丸くしながら聞いていた自分の姿を賢治はおもい浮かべている。
「ある日、その猟師が熊を殺そうとしたら、その熊がボクにはまだやらなければならないことがあるから、もう一年だけ待ってくれと頼んだのだよ。猟師は熊のいうとおりに待ってやった。それで一年がたったその日がくると、家のまえでバタッという大きな音がするので、そとへ出てみると熊が倒れていたんだ」
「熊は約束をまもったんだね、それで猟師はどうしたの」
 賢治は早口で叔母に聞いた。そのときの心のときめきを賢治はおもい起こしている。
「うん、それを見た猟師はもうそれ以上、熊が殺せなくなったばかりか、自分のからだを熊に与えたのだよ」
 賢治はじっと目をつむった。
――果たして、ボクはなにを犠牲にすることができるであろうか。
 賢治はふたたび視線を夜空にむけた。ついさっき見たばかりのあのよだかの幻想がよみがえってくる。多くの虫たちの犠牲のもとに自分のいのちがなりたっている。それなのに、その自分のいのちを鷹に与えることができなかったのだ。それを嘆きながら天空高く舞いあがっていったよだかの行き先におもいを馳せてみる。ふっと賢治はよだかのあとを追って宇宙の旅がしたくなっていった。
 賢治は宇宙の果てにおもいを募らせていく。その宇宙こそがいのちの源であるようにおもわれてくる。そこにこそいのちの根源を解き明かす鍵が潜んでいるのでないかとのおもいに駆られる。
 列車はあいかわらず一定の間隔をおいて鈍い音をたてながら一路北へむかって走りつづけている。なおも、賢治が夜空に視線を凝らしていると、自分のからだがふっと空中に浮かびあがったような衝動をおぼえる。賢治がのっている列車が軌道をはずれてそのまま夜空にむかって走りはじめているのだ。
 夜空に輝く星空の方向に列車は音もなく走っていく。まわりは真っ暗闇である。静寂のなかを列車は走りつづける。車内には何人かの人たちがのっている。そのなかには親友のひとりもいる。そのうち、列車が中天にさしかかったときのことである。ひときわまぶしい輝きをはなっている星が賢治の目をとらえた。じっと見つめると、その星のなかによだかの姿が見えかくれしている。賢治はよだかが星になったのだとおもった。
 羨望のまなざしでその星に見入っていると、にわかに列車が止まった。
「わたしたちもここで降ります」
 乗客のひとりが声をあげた。
 その方向に目をむけると、乗客たちが列車をあとにしていく。
「ここで降りてどうするの」
 賢治が疑問の声を投げかけると、
「どうするって、ここがわたしどもの住むところなのだよ」
 と、叔母に似た老婆が声をあげた。
「そうさ、みんなここで降りてよだかとおなじように星になるんだよ」
 連れあいとおもわれる老人が明るい声でいった。
「それじゃ、ボクもここで降りることにするよ」
 賢治が腰をあげると、いつの間にか賢治のとなりに坐っている親友が、
「まだ、ここはボクたちの降りるところではない」
 といって、立ちあがろうとした賢治を制した。
 乗客たちが降りると、列車はスルスルと走り出した。そして、列車はそのまま上空をめざして走りつづけて、やがて銀河にまで達していた。
 すでに乗客は賢治と親友のふたりだけになっている。列車はさらに天空にむかってすすんでいった。
 賢治たちは列車の走るにまかせていたが、銀河のすぎたところで列車はとまった。
「ここがボクの降りるところさ」
 親友が声をかけた。
「キミはボクだけをのこして降りるというのか」
 賢治は怒りの声をあげた。
「キミの目ざすところはここではない。もっとずっとさきなのだ」
「……」
「キミにはまだやらなければならないことがあるじゃないか。童話を書くにしても、もっともっと法華経の心を探求しなければならないのだよ。めざすところは仏の心であるとわかっていながら、いまだに六道のなかをさ迷っていることが多いではないか」
 賢治は頭をたれるしかなかった。
「仏の心どころか、いまのキミはそのまえの菩薩の心もつかみきれていないではないか」
 追いうちをかけるように友の言葉が迫ってくる。
「ボクは殺生の道から足を洗うことにするよ」
 賢治は親友にむかって、菜食主義に徹することを誓った。
「そんなことはまだまだ序の口なのだ。キミは仏になれる人間じゃないか。菩薩の道が成就しなければ、仏にはなれないのだよ。仏になれば、もっと上空にある星に生まれ変わることができるのだ」
「それではまだボクの生きるところはこの大宇宙ではないのだな」
「いまさらなにをいっているのか。キミはこの大宇宙から生命をいただいている小宇宙ではないか。その小宇宙のなかでこそ菩薩道を歩むことができるのだよ」
「そのとおりかもしれない。地上でもボクたちはもっと幸せに暮らすことができるのだよ。いや、ボクらばかりではない。この宇宙からいのちをいただいているすべてのいのちあるものが幸福な生活を送ることができるのだ」
「そう、それがキミの願いではないか。それを童話にして多くの人たちに知らせることが法華経の行者のなすべきことなのだよ。成功を祈っているよ」
 親友は腰をあげて列車からおりかけた。
「さいごに、なんかボクに忠告することはないのか」
 親友はちょっと考え込んでいたが、
「そう、菩薩道をめざすにはキミがどのような生き方をするのか、その生きる姿勢をはっきりさせることが大事なのだよ」
 親友はそれだけいうと足早に列車をあとにした。
 賢治は親友のむかったあとを見つめていた。やがて、いままで鈍いひかりを放っていた星がにわかに明るくなった。
 賢治がその星を見つめていると、ゴトン、ゴトンという列車の走る音が聞こえはじめている。
 現実の世界に戻されたのだと感じた瞬間に、突如として賢治の耳に大音響がひびきわたった。それとともに、目のまえにそびえている天空がにわかに明るくなっていく。賢治の目のまえに大きな宝塔が姿をあらわしているのだ。七つの宝で飾られた宝塔が大地の方向から姿をあらわして空中にとどまっている。法華経の宝塔品(ほうとうほん)のなかで説かれているとおりの光景が賢治の目をそそいでいる天空にあらわれている。
「わたしは保証人になるためにここにあらわれたのです」
 宝塔のなかから威厳にみちた声があがった。賢治がはっとして宝搭のなかに目をむけてみると、いつの間にか釈迦が多宝如来とともに結跏趺(けっかふ)座(ざ)しているのがわかる。
「いまの声の主は多宝如来です。このお方は久遠の昔に菩薩道を行じていたときに大いなる請願をたてたのです。もし、いつの世にあっても、このわたしの目にかなう法華経の行者があらわれたならば、宝塔とともにあらわれて、そのひとの願いが夢や幻ではないことを保証するといっていたのです」
 釈迦はさとすような口ぶりでいった。
「そのとおりです。わたしは法華経が真実のおしえであることを保証します。この宇宙こそが釈迦如来が法華経を説くにふさわしいところなのです。この天空でこそ釈迦如来が説かれる法華経の心とあなたの心とが一体になれるのです。その心を胸のうちに秘めて、法華経の行者としての道を歩まれることを願います」
 多宝如来はやさしいまなざしをむけた。
「多宝如来がいわれたように、あなたはこれから法華経の行者としての道を歩んでいくのです。その証拠を見せましょう」
 釈迦の言葉に目を見ひらいたとたんに、ふたたび大音響が起こった。そのあとには、数えきれないほどの菩薩たちが姿をあらわして、宝搭のまわりにとどまっている。
「これらの人たちは、みな輪廻転生をとげて、宇宙からやってきた菩薩たちです。みなこれから法華経が真実のおしえであることをひろめていく方々です。そのうちでいちばん右端にいるのがあなたです」
 いわれてみると、まぎれもなく賢治自身である。
「あなたはあなたにあった方法で法華経が説いている慈悲の世界をひろめていけばよいのです」
「おおせのとおりです。その道をすすむことがわたしの願いであります」
「わたしの説いている法華経の世界とは、すべての生きとし、生きるものがみな仲良く幸せに生きていける世界なのです」
「わたしはそこに共鳴したのです。人間だけが貴重な存在ではありません。熊や鳥だって大事ないのちをさずかっているのです」
「そのとおりです。人間のいのちが大事ならば、ほかの動物のいのちだって大事なのです」
 釈迦の慈悲にみちた言葉が胸を打つ。
 だが、やがて賢治の心は悲しい現実とむかいあっていく。おなじいのちを宿していながらも、相手のいのちを犠牲にしなければ、自らのいのちを保っていくことができない現実にたどりつく。
「そんな現実のなかにも、ちゃんと仏の慈悲があるのです。それを見つめなおしてみることです」
「それには自分の生きる姿勢をはっきりさせることが大事になりますね」
 賢治は親友からさずかった忠告を釈迦にむけてみた。
「そうなりきることがほんとうの法華経の行者といえます。わたしはその手本を法華経のなかで示しているではありませんか」
 賢治の脳裏には常(じょう)不軽(ふぎょう)菩薩(ぼさつ)の姿が浮かんでいる。常不軽菩薩は釈迦の前世の姿である。釈迦が常不軽菩薩として修行をつんでいたときには、ただひたすら、会う人ごとに合掌礼拝して、他人を軽んじることは決してなかったという。
「そう、わたしはあなたがたを深く敬い、決して軽蔑したことがありません」
「その生き方こそがボクの理想とするところなのです」
 賢治は釈迦にむかって誓いの言葉をなげかけた。
「そう、あとは具体的にどのような生き方をするかですね」
 釈迦の言葉を待ちかねていたように賢治の頭をよぎるものがあった。
――デクノボー
 その生き方こそが自己犠牲にふさわしいようにおもわれてくる。
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ……
――そのような人間になりきることだ。
 賢治に自分にいい聞かせた。
 いつの間にか、賢治の目のまえから宝塔が姿を消している。
 賢治がはっとして、現実に戻ると、列車がごとごと音にたてながら北へむかって走りつづけているのがわかった。
(了)

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さくら

 秋子はかたわらにいる愛犬のさくらを見ながら、心配そうな顔つきをした。
 いつもなら、かかりつけの動物病院のまえまで来ただけで尻込みするさくらが素直に秋子にしたがった。だが、その足どりは見るからに弱々しい。
 病院のなかに入って、秋子が受付をしているあいだでも、いつもなら、必死になって外へ出たがるさくらが、フロアのうえに座ったまま動こうとはしない。
「やっと歩いているって感じなのです」
 診察室に入ると、秋子は獣医に訴えかけた。
「そうですね。きょうはバカにおとなしいですね。いつからこんなふうに……」
「一週間ほどまえから……。でも、こんなにひどくなったのはつい昨日からなのです」
 そうですか、といいながら、獣医はさくらの顔をのぞきこんだ。
「いままで、おもい病気はいちどもしたことがなかったのに……」
「そうでしたね。何歳になりますか」
 予想もしない獣医の言葉であったが、すぐに秋子はひとり娘の綾子のことに気づいた。
「娘が小学校の五年になったときでしたから、もう十三年になりますわ」
「もうそんなになりますか」
 さくらのすがたに見入ったまま獣医がかすかに首を横にふった。
「先生、もう寿命なのでしょうか」
 秋子はすかさずたずねた。
「いえいえ。なかには十六年も十七年も生きる場合がありますから……。とにかく、レントゲンを撮ってみましょう」
 と、獣医は事務的にいった。
――もしかしたら寿命かも。
 そうおもうと、秋子は気が気ではなかった。秋子にとって、さくらのいない生活は考えられなかった。
 夫は急性心不全で他界してから五年になる。夫のいない寂しさから救ってくれたのはさくらであった。娘の綾子も別に所帯をかまえている。ひとり娘を嫁がせた寂しさを癒してくれたのもさくらであった。
 いまでは、秋子はさくらと寝起きをともにしている。秋子のかたわらで眠っているさくらは、朝の六時なると、きまって立ちあがって、鼻をすり寄せて来る。
「あんた、ゆうべは夜中に起きていたでしょう。どうしたの、なにかあったの」
 秋子はさくらを相手に一方的な会話をしながら食事をする。さくらはあっという間に与えられた餌を食ってしまうが、秋子が立ちあがるまでは、きっちりその場に伏せている。秋子が立ちあがると、鼻を鳴らしながら、散歩につれていけとせがんで来るのだ。
――そのさくらにもしものことがあったら。
 秋子は深くうなだれた。
 ふと、クローン牛のことがあたまに浮かんだ。クローンならば、親牛とおなじ牛をつくることができるというのだ。新聞やテレビでさかんに報道しているので、その概要については秋子も知っている。
「レントゲンで診たところ、とくに異状は見わたりませんね」
 足早に秋子のもとへやってきた獣医がそういって、首をひねった。
「そうですか。そうしますと、どこが悪いのでしょうか」
「からだ全体が弱っています。年も年ですからね。すこし入院させませんか。精密検査をしてみますから……」
 年も年ですから、といった獣医の言葉が秋子のこころにひっかかった。
「はい、よろしくおねがいします」
 秋子はそういって、一息ついてから、
「それとは別のことですけれど、……」
 と、おもいつめたような口ぶりでいった。
「どんなことでしょうか」
「先生、クローン牛のことご存じでしょう」
「もちろん知っていますよ」
「牛にできるのでしたら、犬にもできるのでしょう」
「理屈としたらそうなりますね。それがなにか」
「もう一匹さくらが欲しいのです。さくらのいない生活は考えられないのです」
「うーん、クローン犬ね」
 獣医は腕組みをしながら、視線を遠くに向けていたが、
「いずれにしても、わたしのところでは無理ですな」
 と、首をかしげながらいった。
「先生の知り合いで、実験的にやってくださる方はおりませんでしょうか」
「実験の好きな仲間は何人もいますけれど……。でも、クローンはどうでしょうかね」
「先生、ぜひとも聞いてみてください。やってくれるようにたのんでくださいな」
「……」
「先生、おねがいします。おカネはいくらかかってもかまいませんから」
「そうですか。それではできそうなところをあたってみましょうかね」
「ほんとうですか、先生、恩にきます。このとおりです」
 秋子は深々とあたまをさげた。
 秋子はひとりでおそい夕食をとった。かたわらにはさくらはいなかった。それでも、さびしさのかけらも感じなかった。
――もう一匹のさくらが生まれる。
 そうおもうと、秋子は天にも昇るような気持ちになった。もし万が一、いまのさくらが死んでも、もう一匹のさくらがいる。これからも、ずっと、さくらと一緒の生活ができる。秋子にとって、それはなにものにも代えがたいプレゼントであった。
 秋子は生まれ変ったさくらとの生活におもいを馳せながら床に就いた。浮き浮きしながら身を横たえているうちに、秋子は眠りのなかに落ちていった。
 秋子はひろい草原のようなところに立っていた。ちょうど紅葉のころで、あたりは紅の色につつまれている。秋子はまわりの景色を見まわしている。家族で旅行をしたことのある信州の高原のようである。すこし離れたところで、夫が娘の綾子と毬なげに興じている。たしか、あのときはさくらも一緒だったはずだけれど……。そうおもって、秋子はあたりを見まわしてみる。だが、いくら見まわしてみても、さくらのすがたは見わたらない。
 おかしいわね、とつぶやきながら、秋子は遠くへ視線を投げかけた。すると、遠くの草もみじのなかに、なにか動くものの気配がした。はっとして、秋子はその方向に目を据えた。その動くものは、かなりの速度で秋子のほうに走って来る。近づくにつれて、それはひとつではなく、ふたつであることがわかった。
 秋子が固唾をのんで見守っていると、ふたつのものの正体がはっきりとして来る。二匹の犬であった。
 二匹の犬はあっという間に、秋子のもとへ走り寄ってきた。それも、二匹とも、すがたかたちはもとより、顔つきまでがおなじなのだ。二匹ともさくらにちがいなかった。
「さくら、おいで、おいで」
 といって、秋子は手まねきをした。
 二匹のうちの一匹が尻尾をふりながら、秋子のもとへ近寄ると、しきりにじゃれつきはじめた。秋子はさくらのあたまをなでまわしている。
「さくら、一緒にあそぼう。こっちにおいで」
 という綾子の声がした。
 さくらは、その声を聞くと同時に、綾子のもとへ走り寄っていく。夫もさくらのもとへ走り寄って、いつの間にかさくらを交えて毬あそびに興じている。
「取っておいで」
 といいながら、綾子は毬を遠くへ投げる。さくらと夫が同時に毬をめがけて走りだす。 その光景に見入っていた秋子が、ふと、視線をずらせると、もう一匹のさくらが目に入った。そのさくらは草のうえに伏したまま、上目づかいに毬投げに興じている綾子たちのすがたを見守っている。
「さくら、おいで」
 秋子は右手をさしのべながら、もう一匹のさくらのもとへ歩み寄ると、それまで、伏せていたさくらがにわかに立ちあがった。
「逃げなくともいいのよ。さあ、こっちへいらっしゃい」
 秋子が近寄ると、その分だけさくらは遠ざかっている。
「なにも恐くないのよ。あなたはさくらでしょう。いつから、そんなにひとみしりするようになったの」
 秋子がそういいながら、なおも近寄ると、やはり、その分だけ、さくらは遠ざかっている。
「さくら、もっと速く走れ!」
 夫の声の方向に視線をむけると、よろこび勇んでさくらが夫と一緒に走っている。
 それなのに、もう一匹のさくらは秋子が近づいただけあとずさりしている。
「よく走ったわね。ご褒美よ」
 といって、綾子がさくらに好物のチーズを与えている。
「あなたも臆病がらずに、みんなの仲間に入ればいいのよ。さあ、おいで」
 秋子が早足で近づくと、もう一匹のさくらはにわかに走りだしていた。
「さくら、どこへいくの。こっちよ、こっち」
 秋子はさくらのあとを追って走りだしていた。だが、さくらはかえって、速度をあげて、秋子のもとから遠ざかっていった。
「ねえ、どこへゆくの、こっちよ、こっち」
 秋子は大声で叫んでいた。だが、さくらは振り向こうともせず、あっという間に、秋子の視界から消えていた。
 その瞬間に、秋子はめざめた。
「ああ、夢だったのだわ」
 そうつぶやきながら、秋子はふとんのうえに身を起こした。
 秋子はうなだれていた。ふと、生まれ変わるかもしれないさくらに疑問がもちあがった。たしかに、遺伝子がおなじなのだから、すがたかたちも、おなじになるかも知れない。おなじような性格かも知れない。だが、いまのさくらとクローンのさくらはちがうのだ。そのおもいは秋子のこころのなかで大きくひろがっていった。
 さくらを飼いはじめたときのことがおもいだされた。学校から帰ってきた綾子が子犬のいるのに気づいて、
「お母さん、ほんとうに犬を飼ってくれたの。ありがとう」
 と、目を丸くしながらいった。
「だって、あんたが欲しがっていたでしょう。だから、知り合いに頼んであったのよ」
「そうだったの。お母さん、散歩にいこうよ、この犬を連れて……」
 子犬はまだよちよち歩きであった。綾子はいつの間にか子犬を抱き抱えていた。しばらくすると、ふたりはちかくの公園まできていた。ちょうど、桜の花が咲きはじめていた。それを目にした綾子が、
「お母さん、この犬、さくらって名前にしようよ」
 と、秋子と子犬に交互に目を走らせながらいった。
「うん、いいかもね」
「そうしよう。きょうから、おまえはさくらっていう名前なのだよ」
 綾子は子犬のあたまをなでまわしながらいった。
――あのときのさくらはもう戻ってこないのだわ。
 秋子はふとんのうえでつぶやいた。
 同時に秋子はさくらの死がちかいことにおもいを馳せた。だが、そうであっても、それを静かに受け入れるしかないとおもった。そうおもうと、あんなに動揺した気持ちがウソのように素直になっていく。さくらとの人生はいちどしかない。たのしい思い出をたくさん残してくれた。それでじゅうぶんすぎるようにおもえてくる。
 秋子が獣医のもとへ電話を入れたのは、翌日のことであった。
「先生ですか。木村ですけれど、きのうのクローン犬のはなしはなかったことにしてくれません」
「それはかまいませんけれど、どうして、そんな気持ちに……」
「ちょっと考えることがありまして……」
 と、秋子は快活な声でこたえた。
(了)


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三社祭の夜

      1

 作造は都心にあるTデパートの応接室のソファーに腰をおろしている。両手は膝のうえにおき、心もちあたまをさげ、ときおり、上目づかいに入口のほうに視線を投げかけている。となりに座っているは妻の高子である。彼女は襟を正して、胸を張り、顔にはうっすらと笑みを浮かべている。
 Tデパートが新店舗を開店するにあたり、出店者を募集しており、その最終選考の結果がつげられようとしている。浅草で出雲屋という和菓子屋を営んでいる作造夫妻にとって、この選考結果は商売があらたな軌道にのるかどうかという問題だけにとどまらなかった。長年にわたってライバル関係にある千歳屋との競争に決着をつける悲願達成の場でもあった。作造夫妻はのるかそるか、その命運をこの選考結果にかけているのだ。
「お待たせしました」
 五十年配の男が入ってきた。営業推進部長の吉野良二である。妻の高子は吉野とは面識があるが、作造は初対面である。高子は吉野の顔を認めるなり、すばやくソファーから立ちあがって、深々とあたまをさげている。きりりとした顔つきのなかにも余裕がうかがえる。作造は高子にうながされて立ちあがると、ペコリとあたまをさげた。あやつり人形のようにぎこちない身のこなし方である。
「よかったですね。出雲屋さんに決まりましたよ」
 吉野はそういって、作造と高子に交互に視線を向けた。間髪を入れず、高子が、
「ありがとうございます。部長さんのおかげです」
 と、神妙な顔つきをしながらいった。となりでは作造が無言のまま何回もあたまをさげている。
「やはり、最後までのこったのは、おたくと千歳屋さんでした。決め手になったのは味ですね。出雲屋さんのほうが一枚うえだというのが大方の意見でした」
 吉野は作造のほうに視線をむけた。作造は、ありがとうございます、とつぶやくようにいって、またペコリとあたまをさげた。

      2

味が一枚うえだった、といった吉野の言葉が作造のあたまのなかでぐるぐるとまわっている。先代から受け継いで、守りつづけてきた伝統の味が評価されたのだ。作造は緊張のあまり身をかたくしている。だが、内心では「万歳」と叫びたいほどのうれしさをかみしめている。先代の久吉の顔が脳裏をよぎる。
「味が勝負だ。下手なお世辞なんかいらないぞ」
 先代の言葉を信じてきょうまで菓子作り一筋の人生を歩んできたのだ。
千歳屋のあるじの顔があたまをよぎる。人を食ったような顔つきをしている。こちらも先代から暖簾を引き継いだのだ。もっとも、作造が婿養子であるのに対して、千歳屋は先代のせがれで、れっきとした跡取りなのだ。
「あんたはオレの相手じゃないぜ」
 千歳屋の言葉が聞こえてくる。七年ほどまえに、同業者の集まりの席でいわれた言葉である。作造ははらわたが煮えたぎるような衝動にかられた。拳を握りしめて挑みかかろうとしたが、かろうじて理性がそれを制した。屈辱感に耐えて唇を噛みしめた。
その宿敵の千歳屋と競い合って、勝利を掌中におさめたのだ。
「お父さん、よかったわね」
 と、高子が作造に声をかけた。選考結果の通知を受けての帰り道である。
「これでおやじにも顔向けができるな」
 作造は吐息をついた。
「お父さんが地道に精進してくれたおかげですよ」
「そんなことはないさ。おまえが店をうまく取り仕切ってくれたからだよ」
「そうね。二人で力を合わせましたものね。これでやっと父の遺言がかないましたわ」
 高子の声はうわずっている。作造と高子が二人三脚で久吉の夢を成就させたのだ。

      3

 いつしか二人は浅草に着いていた。肩を寄せ合いながら家路を急いでいる。祭り囃子が聞こえてくる。商店街の飾りつけが目に入る。祭りの格好をした若者の姿が見える。浅草の街ははなやいだ雰囲気につつまれている。ちょうど三社祭が初日を迎えていた。作造のこころはなごんでくる。十五の歳に出雲から丁稚奉公に来て、五十六になったいまに至るまで、三社祭の虜になってきたのだ。三社祭で御輿をかついで一汗流せば、日々の仕事のつらさも忘れることができた。
「お父さんの好きな祭りの日にまたとない話が聞けてよかったわ」
「そうよ、願ってもないことだ。これでなにもかも忘れて祭りがやれるよ」
 沿道は人波であふれている。御輿が町内を練り歩いているのだ。「ソイヤ、ソイヤ」という威勢のよいかけ声がひびきわたっている。作造はすぐにでも祭りのなかに溶け込みたいような衝動にかられる。だが、まだ仕事がのこっている。高子にうながされて、しぶしぶと自宅に向けて歩みをすすめた。しばらくゆくと、前方に「出雲屋」という看板が見えてくる。出入りするお客の姿が目にうつる。その手前には「千歳屋」という暖簾が見える。こちらの店先にも人影がちらついている。だが、出雲屋の人影のほうが多い。
「うちのほうが多いじゃないか」
「そうよ。最近はうちのほうが多いのよ。店員の応対だってうちのほうがずっといいそうよ」
 高子が自信ありげにいった。
「そりゃ、おまえの指導のたまものだよ。オレにはとてもできそうにないさ」
 作造はポツリといった。
「でも、なんといったって味ですよ。千歳屋さんよりも一枚うえだって吉野さんも認めてくれたじゃありませんか。父の味をあなたが守って育ててくれたおかげですよ」
 高子が作造を見つめながらいった。

      4

「おやじさんが呼んでいるから奥の座敷まできておくれ」
 作造はおかみの米子から声をかけられた。ちょうど材料の仕込みをしているときである。桜もちの季節になっていた。作造は米子のあとについて奥座敷に向かった。あるじの久吉は風邪をこじらせて、それがもとで肋膜炎を併発して、もう三か月あまりも床に伏せている。作造は奥座敷まで来ると、入り口にかしこまって坐った。久吉は奥の六畳間に寝ている。午後の陽射しが久吉の寝ている枕元にまでおよんでいた。
「おお、作造か。もっとこっちへ」
 久吉は右手を差し出した。力のない緩慢な動作である。久吉は作造に握手を求めているのだ。久吉の意図に気づいた作造はあわてて久吉のもとへ歩み寄って手をにぎった。久吉の手はことのほか冷たかった。そのうえ、握り返して来る力も弱々しい。
「作造、ウチへきて何年になる」
 久吉が意外なことを口走った。
「十五のときですから、もう九年になります」
「九年か。早いものだな。おまえを郷里の出雲から連れてきたのは、オレがおやじの法事に帰ったときだった。おまえはいが栗頭で可愛かった。家まで迎えに行ったな。宍道湖のすぐそばで、ちょうど夕方だった。夕焼けがきれいだったなあ。その日の夜行に乗ったんだ。おふくろさんが駅まで見送りに来ていたじゃないか」
 久吉はとぎれとぎれの声でいった。言葉の端端に郷里をおなじくする人間の親近感がにじみ出ている。黙って聞いている作造の脳裏にも、そのときの情景が鮮明によみがえっている。母親のさびしそうな面影が胸に迫ってくる。
「作造、オレはこのとおりのからだになってしまった。もう長いことはない」
「またあんた、そんな縁起でもないことを」
 と、米子が口を挟んだ。
「おまえは黙ってろ。自分のからだだ。オレがいちばんよく知っている」
 久吉は間髪を入れずに、米子を叱りつけた。作造は二人のやりとりを伏し目がちに見つめていた。
「おまえにひとつ頼みがあるんだ」
 久吉は力みながらいった。作造は身がまえた。
「ほかでもねえ。おまえにこの店を継いでもらいたいんだ。このままじゃ、あの世へいっておやじに合わせる顔がねえ。店まで出してくれたおやじに合わせる顔がねえんだ」
 久吉の口から作造が予想もしていなかった言葉が発せられた。作造が自分の耳を疑っていると、
「オレと千歳屋はおなじ店で育ったんだ。おなじおやじに育てられたんだ」
 と、久吉はしゃがれた声でゆっくりといった。

      5

 そのことは作造も知っていた。久吉と千歳屋のあるじは、先代の千歳屋のあるじのもとへ丁稚奉公に入った間柄であると、何回となく久吉から聞かされていたからである。千歳屋のあるじのほうがひとつだけ年上であることも作造は久吉から聞かされていた。
「おやじはあたまのいい人だった。だから、人間の本質を見抜いていたんだ。商売人は競争相手がいなけりゃダメだというのがおやじの口癖だった。それでオレと千歳屋を競わせるように仕向けたんだ」
 作造はそこまでは知らなかった。久吉も話してはくれなかった。作造は真剣なまなざしをして久吉の言葉に聞き入った。
「おやじは子どもがなかったから、いちばん仕事のできる人間に自分の店を譲ることにしていたんだ。みんなのまえではっきりとそういったものさ。オレも色気を出して頑張ったもんだよ。でも、千歳屋にはどうしても勝てなかった。もう一歩およばなかったんだ」   
はじめて聞くことばかりである。緊張しながら、作造は一歩身を乗り出している。
「それでおやじは自分の店をいまの千歳屋に譲って、オレには新しい店を出してくれたんだ。そのときにおやじのいった言葉が忘れられねえんだ」
 久吉は身を堅くした。
「なあ作造、高子と一緒になって、この店を守ってくれ。このままじゃオレは死に切れねえんだ」
 高子という一言を耳にしたとたんに、
「それはちがう。お嬢さんには……」
 と、作造はこころのなかで叫んだ。だが、それは胸のうちに伏せて、
「おやじさん、わたしにはそんな大役はつとまりません」
 と、はっきりとした口調でいった。胸の高鳴りはおさまる気配がない。
「あいつはわがまま放題に育てた」
 久吉はかたわらの米子に視線を向けた。米子は下を向いたまま沈黙を守っている。
「そのうえ気性もきつい。それは承知している。でも。話のわからない女じゃない。オレからよくいって聞かせる。とにかく、この店を任せられるのはおまえしかいないのだ」
 作造は黙っていた。あたまのなかには賢三の姿がちらついている。作造の兄弟子で三つ年上である。その賢三が高子と親しそうに語り合っている情景があたまをよぎる。その情景はいつしか作造が目撃した強烈な場面とかさなり合っていく。
 暮れも押し詰まった寒い夜のことである。作造は仕事のあとかたづけをしていた。仕込み用の樽をかかえて裏庭に出たときのことである。賢三が高子をしっかり抱きしめているのだ。作造は見てはならないものを見てしまったといううしろめたい感情に襲われて、かたづけようとしていた樽をかかえたまま作業場に引き返していた。いつまでも二人の抱擁している光景が脳裏から離れようとはしなかった。

      6

「おまえは要領の悪い男だ。仕事も遅い。そこがいいんだ。それにおまえはウソをつかない。仕事からも逃げない。味にとことんこだわる。そこがいいんだ」
 久吉は噛みしめるような口調でいった。
 作造はうつろな気持ちであった。万が一自分が引き受けたにしても、高子が承知するはずがない。絶対にない。その感情は重石のようにのしかかって、作造のこころのなかにおちた。
「人間は実直なのがいちばんだ。たしかに賢三も悪くはない」
 久吉の口から賢三という言葉が発せられた。作造はやはりとおもった。高子の顔が浮かんだ。
「たしかに賢三は仕事ができる。要領もいい。一を聞いて十を知る男だ。でも……」
 そこまでいって、久吉は言葉をとめた。作造は下を向いたまま、久吉の言葉に耳を傾けている。午後の柔らかな陽射しが久吉の病床をつつんでいる。作造は病床の久吉に目を向けてみた。布団のうえに投げ出した腕がほっそりしている。
「賢三はダメだ。要領がよすぎる。それにウソをつく。あいつには任せられない」
 作造は賢三の言葉を重く受けとめていた。久吉の見解にうなずけたのだ。たしかに賢三は仕事が早い。その点では作造も異論はない。だが、うまく立ち回り過ぎる。いつも久吉の目を気にしている。久吉の気に入りそうな仕事は作造から取りあげても自分の手柄にしてしまう。だから、久吉からお目玉を食うことはまずない。そのつけが作造に回ってきて、いつも作造が叱られ役になった。
 作造は久吉の人を見る目の鋭さに敬服した。だが、そうかといって、作造には高子は遥かな人におもわれる。やはり、高子と一緒になって出雲屋の身代を継ぐのは賢三をおいてほかにはないのだと作造は決めつけた。
「おやじさん、せっかくの話ですけれど、わたしには荷が重すぎます。それに……」
 といいかけて、作造はまたもやそこで口をつぐんだ。
「じつはな、これほどまでにおまえにこだわるには、ひとつだけ訳があるんだ」
 久吉は作造の固辞する意志が堅いことを察して話題を変えた。作造は下をうつむいて沈黙している。久吉がおもむろに口を開いた。
「この期におよんで、ひとつだけこころのりがあるんだ。それはな、おやじが店を出してくれたときにいった言葉なんだ。おやじは暖簾分けをするんじゃないぞというんだ。本家も分家もないってわけさ。一軒のあるじだから、おまえの自由にやれっていうんだよ。出雲屋という暖簾も、そのときにおやじがつけてくれたんだ。それで、おやじは最後に、久吉よ、商売には兄弟子も弟弟子もないぞ。千歳屋の味に負けるな、といったんだ」
 久吉のいったその言葉は作造の胸に突きささった。それと同時に、
「作造、この味はなんだ。こんな味しか出せねえのか。これじゃ千歳屋のあしもとにも追いつかねえぞ」
 かつて何回となく叱責をされたときの記憶が作造のあたまをよぎった。
「どうしても千歳屋の味には勝てなかった。いいところまで追いあげたんだけれども、もう一歩がおよばなかった。なあ、作造。千歳屋は二代目が跡継ぎになる。あれは要領のいい男だ。目から鼻に抜けている。それに対抗するには賢三ではダメだ。お互いに目先ばかりの争いになってしまう」
 作造の脳裏には千歳屋の二代目の顔が浮かんでいた。道ですれちがっても、言葉ひとつかけない。それどころか、作造など虫けらのようにしかおもっていない風情なのだ。
「あの男と張り合うには、地道に味で勝負をしていく以外にない。それにはおまえしかいないのだ」
 久吉はそういって、また右手を差し出した。作造はしっかりとその手を握り締めた。久吉も握り返してきた。さっきとは比較にならないくらい力が入っている。作造は体内に熱気がみなぎるのを感じはじめた。
「やらせてもらいます。おやじさんから仕込んでもらった出雲屋の味を守りつづけていきます。きっと千歳屋の味に追いついて見せます」
 作造はなにかにうながされるように、そう口走っていた。あたまのなかには、いつまでも千歳屋の二代目の顔がある。
「そうか、やってくれるか。オレの目に狂いはない。おまえなら大丈夫だ。きっとやってくれる」
 久吉はそういって、何回もうなずいた。目頭が潤んでいた。

      7

 店を継ぐと承諾はしたものの、作造のこころは晴れなかった。高子が承知するはずがないとのおもいが作造の胸に重くのしかかっていたのだ。高子と顔を合わせるのがためらわれる。高子の姿を認めると、わざと姿を隠したりした。だが、そのうち、廊下の曲がり角で、ばったりと顔を合わせることになった。夕食を済ませて、入浴をするために母屋に足を運んだときのことである。
「あら、作造さん」といって、高子は笑顔を浮かべている。作造はいたたまれずに視線を外していた。「ごめんなさい」とだけいって、逃げるようにその場を立ち去った。
 作造の胸は高鳴っている。それまで作造なぞまったく無視していた高子が、笑顔を浮かべて作造を見つめていたのだ。作造は内心ほっとした。久吉から高子が結婚の承諾をしたと知らされたのは、その翌日のことである。
 それからも久吉の病状は悪化の一途を辿り、回復の兆しは見えなかった。それでいて、久吉の顔には安堵の色が浮かんでいた。作造が高子と祝言を挙げたのはその年の秋の大安吉日のことである。その二日後に久吉は息を引き取ったのだ。

      8

 デパートへの出店は成功をおさめた。連日、客足が途絶えないばかりか、日を追って増えつづけている。それに見合うだけの努力も重ねた。なかでも、作造と高子の役割分担がことのほかうまくいっている。菓子の製造と管理は作造が全責任を負っている。すべてが作造の指示のもとで行われる。五十を過ぎて、体力の衰えは否定できない。だが、気力がそれを補って余りある。高子も全精力を投入して客扱いに専心した。店員の仕付けは以前にも増して厳しさを加えている。言葉遣いから細部にわたる身のこなし方まで指導を徹底した。
「今月もだいぶ繁盛したろう」
 と、作造がいった。高子と遅い食卓を囲んでいるときのことだ。
「ええ、予想の倍はいきましたよ」
「そうか。それはよかった。でも、からだのほうは大丈夫か。しんどかったろう」
「いえいえ、ちっとも。気が張ってますから、病気のほうで逃げていきますよ。わたしよりも、あなたのほうこそ大丈夫ですか」
「オレだっておなじだよ。せっかくデパートヘ進出できたんだから、軌道に乗せないことにはなあ」
「そうですよ。まだ安心できませんよ。千歳屋さんだって、このまま黙ってはいませんよ。あの旦那さんのことですから……」
 高子ははっきりといった。作造は深くうなずいている。
「修一は来年は大学だったなあ」
 作造が話題を変えた。修一は作造夫妻の一人息子である。
「ようやく大学ですよ。でも、仕方ありませんわ。わたしが三十四のときの子どもですもの」
「そうだったな。オレが三十五のときだったからな。子どもなんかできないとおもっていたものな」
「そうですよ。修一は授かりものですからね。これで満足したらバチがあたりますよ。しっかりと軌道に乗せて、修一にあけわたすまでは気が抜けませんよ、あなた……」
 高子の言葉に作造は大きくうなずいた。体内に闘志がみなぎってくるのがわかる。
 それからも店の経営は順調であった。なかでもデパートへの出店効果は抜群であった。出雲屋という暖簾が短期間のうちに多くの人たちに知れわたっていった。それに伴って、他のデパートからも出店要請が寄せられた。
「別のデパートからも店を出さないかっていうのよ」
 帰宅するなり、高子はそう切り出した。自信に溢れた顔つきをしている。
「そうか。それでどうする」
「私はやる気ですよ。このとおりピンピンしていますから。それよりもお父さんのほうが……」
「いや、オレだって大丈夫だ。あと二、三軒拡張したって、出雲屋の味は守っていけるさ。さっそく申し込んだらどうだい」
「もう申し込みましたよ」
 二人は同時に顔を見合わせた。高子は満面に笑みをたたえている。高子に対する信頼感で作造の胸は溢れっていった。
 新しく出店した店もことのほか繁盛をした。作造夫妻はさらに多忙な日々を送るようになっていった。作造は毎朝五時に起きて、そそくさと朝食を取り、従業員が来るまえに仕事の段取りをつけていた。そのあとも肝心な味つけになると、一寸たりとも、従業員に任せることはなかった。

      9

「新しい機械を入れて、任せるところは任せたらどうですか」
 と、高子が忠告をした。連日、夜の十時をまわっても仕事を切り上げようとはしないのだ。
「それはダメだ。それをやったら味が落ちる。出雲屋の暖簾に傷がつくんだ。オレのことは心配しなくともよい。やれるところまではやって見せる」
 たいがいのことは高子の忠告に耳を傾けたが、こと菓子作りになると、作造はがんとして自分の主張を貫きとおした。その主張どおり、作造は寝食を忘れて仕事に打ち込んだ。だが、いくら力んでみても、作造ひとりの力量には限界がある。すでにその限界に達しているのだ。それにもかかわらず、それからも出店計画がつづいた。そのなかで、高子が一も二もなく飛びついたのが、大手のスーパーからの出店募集であった。
「それはダメだ」
 高子からその話を聞かされたとき、作造は拒否の態度を鮮明にした。
「お父さん、なにをいってるのよ。願ってもない話じゃないの。これからはスーパーのほうが有望なのよ」
 高子も作造の声に耳をかそうとはしない。あくまでもスーパーへの出店に固執した。
「有望かもしれないけれど、もうこれ以上は無理だ。絶対に無理なんだ」
「いまのやり方ならば無理に決まっているわ。もっと機械化をして、任せるところは任せていけば、いくらだって作れるわよ」
「それはダメだ。それでは味が落ちる」
「なにも芸術作品を作るわけではないのよ。材料を吟味して、生産工程をチェックしていけばかなりのものができますよ」
「それはちがう。菓子作りは長年の経験がものをいうのだ。舌で味わって調合するんだ。それで出雲屋の味が出せるんだ」
「それは古い考えなのよ。たしかにあなたのいうようにはいかないかもしれないけれど、それに近いところまでは製品化できますよ。実験済みなんですから‥‥」
「なんだおまえ、オレに内緒でそんなことまでやっていたのか」
 作造はこめかみをピクピクさせた。
「相談したらダメだというに決まっているじゃないの。とにかく生産ラインを抜本的に改めなければ、この以上の発展は望めませんよ」
「やみくもに店だけふやしていけばいいというものじゃないだろう。出雲屋の暖簾で売るのならば、味もそれにふさわしくなくてどうする。お客の舌は敏感なんだぞ」
 作造はどもりながらも、主張をつづけた。一切妥協しようとはしない。顔を紅潮させながら高子をにらんでいる。だが、高子は動じる気配がない。顔には軽蔑の色さえ浮かべているのだ。
「時代がちがうのよ。いままではあなたのやり方が通用したけれど、これからはちがうわよ。もっと従業員を信頼しなくては発展がありません。だいたいあなたのやり方では後継者が育ちませんよ」
「その点は考えないこともない。伝統の味を守れる後継者を育てることがいちばん大事なんだから‥‥」
 作造はそこまでいって黙した。高子は視線をあわせようとはしない。顎をつんと出して遠くに目をむけている。
「来年は修一が大学を卒業する。そうしたら、あいつを鍛えるんだ。とことん鍛えて味のわかる跡取りに仕上げてみせる」
 作造は力んでいった。からだが熱くなってくるのがわかる。高子は視線をはずしたまま、何回となく、首を横に振っていたが、
「あなたはなにを考えているんですか。修一は職人なんかにしませんよ。学校を出したら、経営を学ばせるんです。この時代に作業場に閉じ込めてなにになるんですか」
 と、顔に皺を寄せ、口をまげながらいった。
「それはダメだ。経営者になる人間が味がわからなくてどうする」
「心配にはおよびません。わたしが立派に育ててみせます。修一はわたしに従うといっています。これからは店のことはすべてわたしの方針でやらせてもらいます」
 高子はそういうと、そそくさとその場をあとにした。作造の方を振り向く素振りさえしようとはしない。
 作造の予想に反して、スーパーヘの出店も成功した。それからも次々と店舗を増やしていった。郊外にも新工場をつくった。最新の機械を導入した近代的な工場である。すべて高子が独断で行なったものある。従業員の多くが新工場にうつっていった。作造のもとへ残ったのは、年配の男ふたりだけとなった。作造はこのふたりを相手に旧来の手法で、伝統の味を守りつづけた。だが、生産量は一軒の店で売り捌くのがやっとだった。
 高子は店舗の拡充とならんで、新製品の開発にも力を入れていった。もとより、作造にはなんらの相談もなかった。代わって、長男の修一が商品管理のノウハウを身につけて、高子の補佐をしていた。

      10

 作造はひとり浅草の街を歩いている。宵闇の迫るころである。着慣れた普段着を身にまとっている。祭囃子が作造の耳をとらえる。三社祭は最後の夜を迎えていた。祭りは宮入りの時間が迫りつつある。沿道を埋め尽くしている観客たちは、宮入りが行なわれる浅草寺の境内に大挙して移動をはじめている。急ぎ足で作造を追い抜いていく。ひとり作造だけが急ぐ気配がない。ときおり、移動していく観客たちに視線をなげかけながらゆっくりとした足どりで歩いている。
 しばらくゆくと、作造だけが反対の行動をとりはじめた。大勢の人たちが浅草寺の方向に歩みを進めているのに対して、作造だけが逆の方向に歩き出していた。それでも、ときおり、立ち止まっては、大勢の人たちのうしろ姿に目をとめている。だが、おなじ動作を三回ほど繰り返したところで、かすかにうなずくとくるりと向きを変えて早足で歩きはじめた。
 作造は脇目も振らずに歩きはじめた。いつしか、浅草の歓楽街をはずれて千束通りまで来ている。そこから作造は横丁へ折れた。そこには飲食店が軒を連ねている。作造は「さつき」という看板のまえで立ち止まり、慣れた足どりで暖簾をくぐった。五、六人も入れば満席になってします小料理屋である。
「あら、旦那早いじゃないですか。宮入りを見に行かなかったのですか」
 カウンターのなかから快活な声がした。おかみの千代である。
「うん、やめにしたよ。オレが一番乗りか」
 作造は左右をみわたしながらいった。
「みんな、宮入りへ行っているのでしょう」
「そうか、じつはオレも行こうとおもったんだよ、ほんとうのところは‥‥」
「どうして、行かなかったのですか」
「寂しいからな。これで祭りがおわりかとなると、たまらなく寂しくなりそうなんだ。だから行かなかったんだよ。若いころはそうじゃなかった。宮入りがおわると、この次がある。それまでは頑張って働くぞ、という意欲がわいてきたものさ。もうそんな元気もないからな‥‥」
 作造はビールを満たしたコップを見つめながらしんみりとした口調でいった。
「そうだったわね。宮入りがおわって、ウチヘ寄ってくれたときはいつもはつらつとしていましたものね」
「そりゃそうだよ。どんなに辛いことがあっても、三社祭のことを考えると辛抱ができたものさ」
「先代はきびしい人だったんでしょう」
「きびしいなんてものじゃなかった。自分とおなじ味が出せなけりゃゲンコツが飛んでくるんだから‥‥。そんなことで千歳屋の味が乗り越えられるかって。おやじはそれが口癖だったからな」
「そんなきびしい人に仕込まれたから、いまの出雲屋さんがあるんですよ」
「みんな昔のことさ」
 そういって、作造はビールを飲み干した。

      11

「おまえは要領の悪い男だ。でも、そこがいいんだよ」
 先代の久吉の言葉が聞こえてくる。宝物のように心の奥底に忍ばせてきた言葉である。その言葉を道しるべに伝統の味を守りつづけてきたのだ。作造の心は自負心であふれてくる。かたくななまでに味にこだわりつづけたからこそ、久吉の遺言が成就できたのではないか。それなのに‥‥。
 いつしか、批判の矛先は高子と修一のもとへ向けられている。それなのに、おまえらのいまの態度はなんだ。気負いの感情がとめどなくわきあがってくるのだ。
「でも、ここまで店を大きくすれば、もういいじゃありませんか」
 おかみの千代が口をはさんだ。
「そんなことはない」
 作造はそういいかけて口をつぐんだ。ふたりに任せてはおけないという感情が迫ってきたが、一方では、それを押しとどめる力が強く働いていた。
 店頭での高子の采配ぶりがまぶたに浮かんだ。堂に入った客扱いである。お客の欲するところを瞬時に察知する。言葉も巧みである。顔には笑顔を絶やさない。身振り手振りは名人芸である。従業員の教育だってツボを心得ている。しつけるところは徹底してきびしくしつける。それでいて、裏にまわっては親身になって世話をやいているのだ。
 息子の修一の評判も悪くはない。もともと高子に似て社交的なタイプである。それが高子の薫陶を受けて、客扱いに磨きがかかっている。
「おまえは要領の悪い男だからな」
 先代の言葉がまた脳裏をかすめた。だが、そのあとの「そこがいいんだ」という言葉はよみがえってはこない。
 作造は素直にその言葉を受け止めた。そのとおりだとおもった。味付けだけは名人芸だという自負はある。だが、それを除けばなんの取り柄もない。従業員に仕事を任せることが出来ない。細かいところまで自分で確認しなければ気がすまない。そのうえ、社交性はゼロに等しい。とても経営者の器ではない。作造は心底から自責の念にかられた。

      12

「どうしても千歳屋には勝てなかった。それができるのはおまえだけだ」
 久吉のその一言で作造の人生は決まった。「やらせてもらいます」といって、闘志を燃やしたのがつい昨日のようだ。
 その宣言のとおり、作造はよく働いた。身を粉にして働いた。高子も作造に劣らず働いた。そのうえ、貞淑このうえない妻だった。
「千歳屋なんかに負けられないからな」
「大丈夫、お父さんのこの腕があれば‥‥」
 高子は作造の腕をポンと叩いた。いまの高子からは想像できないことである。
 修一を肩車にして、三社祭に出かけたこともあった。かたわらには高子がいた。宮入りまで三人が一緒だった。宮入りがおわると、その帰り道で翌日からの仕事の段取りについて話し合った。それでいて、寂しさのかけらもなかった。それがいまはちがう。宮入りに出向く気力さえ失せているのだ。
「結局、あいつは千歳屋に勝つことだけが目的だったのか。おやじの遺言を成し遂げることだけが‥‥」
 作造は心のなかで怒りの声をあげていた。だが、その声はそれ以上に高まる気配がない。
 それを押さえ込むように、
「おまえは要領の悪い男だ」
 という言葉が聞こえてくる。そのあとには、こんどは、
「そこがいいんだ」
 と、つけくわえている。
「ありがたいおやじだったな」
 作造は心中でつぶやいていた。心がなごんでくるのがわかる。そのとき、カウンターのなかから、
「旦那、出雲から出て来て何年になります」
 と、千代がいった。不意をつかれた作造はしばらく黙していたが、やがて、口をひらいた。
「そうよ、十五の年だからな。いま六十四か。もう五十年近くになるのか」
「もうすっかり東京の人ですね」
「いや、そうでもないさ」
 そういって、作造は黙した。脳裏には宍道湖の夕日がひろがっている。まばゆいばかりの落日である。作造は突如として郷愁の念にかられる。もう十年あまり帰郷していない。
「この店もながいあいだ贔屓にしてもらいましたね、何年になりますかしら」
 千代がしんみりとした口調でいった。
「そうよ、四十をすぎたころからだから、もう二十年にはなるんじゃないかな」
「もう、そんなに‥‥」
「そうだよ、それにしてもあんたは若いね、いつまでも」
「あら旦那、いつからそんなに口がうまくなったのですか」
「お世辞じゃないよ、昔からそうおもってたんだよ」
「ほんとですか、それなら若いときにいってくださればよかったのに‥‥」
「いってみたかったけれど、オレなんか相手にされないとおもって」
「そんなことはありませんよ、そのときにいってもらえれば‥‥」
 千代は色っぽい目を作造に向けた。
 そこへなじみの客がどやどやと連れ立って入ってきた。みんな祭りの衣装を身につけているから宮入りの帰りである。
「老兵は消え去るのみか」
 作造は立ちあがった。
「旦那早いじゃないですか」
 背後から千代の声がした。
                                  (了)


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鐘軌さん

     1 

 わたしは二年まえに心臓発作を起こして緊急入院をしたことがある。そのときに主治医からはこんど起こったら、入院だけではすまないと釘をさされていた。その言葉は気にはなったけれど、それからの健康状態はわりあい順調であった。それがこの正月すぎあたりから、ときおり胸苦しさをおぼえるようになった。そして、その兆候はおさまる気配がなく、かえって、日を追っておもくなっていったので、内心ではかなり危険な状態にあるような気がしてならなかった。
 二年まえの悪夢が脳裏をよぎった。
――こんど発作が起こったらいのちにかかわるのでは……。
 わたしは死への恐怖心にとらわれるようになった。それはわたしの仕事である人形づくりにも影響をおよぼしだした。だが、わたしは端午の節句を控えて注文におわれていた。「あなたなにをしているのですか」
 妻の眞弓がわたしの奇怪な振舞いを見て甲高い声をあげた。わたしはせっかく丹精してつくりあげた節句用の人形をかたっぱしから壊していたのだ。
「こんな人形を納めたんじゃウチの看板に泥を塗るようなものだ。そうなったらオレの腕を見込んで跡継ぎにしてくれたオヤジに申し訳けがないじゃないか」
 わたしは人形を壊しながらいった。
 人形づくりの腕が見込まれて、わたしは先代のむすめの眞弓と所帯をもって先代の人形店をついだのだ。
「あなた、やみくもにこだわるところなんか、お父さんみたいになったわね」
 眞弓はわたしが壊した人形を手にとってながめていたが、
「どこが悪いのかわたしにはさっぱりわかりませんけれどね」
 と、首をかしげながらいった。
「人形は顔がいのちなんだ。じっと顔を見てみろよ、どれもこれもみんな死に顔をしてるじゃないか」
「ええ、死に顔ですって」
 眞弓は人形をもちなおして、じっとながめなおしていたが、
「あなたの気のせいですよ。みんないい顔をしているじゃありませんか」
 といって、ほっとした顔つきをした。
「おまえにはわからないだけなんだ。見るひとが見ればひとめでわかるんだ」
「そうですかね」
「そうそう、となりの部屋の棚にのせてある鍾馗(しょうき)さんをもってきてくれないか」
 人形を壊している手をやすめてわたしはいった。
「青山さんの注文でつくったあの鍾馗さんですか」
「そうだよ」
「あれはきのうお使いのひとが取りに来たのでもたせてやりましたよ」
「なに、もたせてやったって……。オレに黙って……」
 わたしは不機嫌な声をだした。
「だって、あの棚に置いてあるのは完成品でしょう。いつもそうじゃありませんか」
 眞弓は解せないといった顔つきをした。
「うーん、こっちへもってきておけばよかったな」
「すぐに欲しいみたいでしたよ、青山さんは……」
「知っているよ、だから、いったんは納めようとおもって、あそこに置いたんだ。でも、それはダメだ。青山さんが見ればいっぺんでわかってしまう」
「なんだかわかりませんけれど、あなたがそんなにこだわるのでしたら、あとで連絡をして返してもらうようにしておきますよ」
「そうしてくれ」
 わたしはまた人形を壊しはじめた。
「あなた、そんなに壊してしまって、期限までに納められるのですか」
 眞弓が首をふっているのがわかった。
「がんばるだけだ。不良品を納めるわけにはいかないじゃないか」
「無理しないでくださいよ。顔色もよくないし……。それに病気では前科があるのですからね。あしたにでも病院に行ってよく診てもらいましょうよ」
 わたしが二回目の心臓発作を起こしたは、その晩のことであった。

     2 

「血圧はどうかね」
「落ちついています」
「そう。脈拍と体温は……」
「両方ともほぼ正常値にもどっています」
「意識がもどってもいいころだな」
 耳の底から男と女の会話が聞こえてきた。その声にうながされるように、わたしはうっすらと目をあけた。
「あら、あなた気がついたのね。わたしですよ、わたし」
 興奮した女の声が聞こえる。すぐに妻の眞弓の声であることがわかった。
 ふたりの目がベッドのうえからわたしを見つめている。眞弓と白衣を着た男である。
「気がつかれましたか。いま噂をしていたところなんですよ」
 白衣の男は笑顔を浮かべながらいった。
「あなた、手術が成功したのですよ、先生のおかげで……」
 眞弓は涙を浮かべながら、白衣の男に視線をむけた。わたしも男を見つめた。岡田というネームプレートが目に入った。
「もう大丈夫ですよ」
 主治医の岡田は大きくうなずいた。
 眞弓が医師に頭をさげた。
「いやいや、当然のことをしたまでですよ。静かなほうがいいでしょう」
 岡田はかたわらの看護婦といっしょにその場をあとにした。
 わたしはすっきりとした気持ちであった。あれほど悩まされた死への恐怖心がまったくなくなっているのだ。
 ひと眠りして目をあけると、ベッドのかたわらに眞弓がすわっていた。
「夢のようですわ、こうして、あなたの元気な顔が見られるようになれるなんて……」
 眞弓が目頭をおさえながらいった。
「オレだってそうだよ。こんど発作が起こったらおわりだとおもっていたんだから……。死ぬことばかりを考えていたんだ。それで人形をつくっていたんだから、いいものができるわけがないよ」
 わたしは手術したばかりの人間とはおもえないほど元気な口調でいった。
「とにかく安心しましたわ」
 眞弓がポツリといった。わたしは黙ってうなずいた。
 沈黙がつづいた。
 わたしは胸が苦しくなって倒れたことはおぼえている。それからあとのことははっきりとはおぼえていないけれど、意識がもどるまでのあいだに自分の死生感を左右するような不思議な体験をしたことだけはわかっていた。
 わたしはそのことにおもいを馳せていた。あれほど悩まされた死への恐怖から解放されていることが不思議でならないのだ。おもいをめぐらせているうちに、その不思議な体験の全体像がはっきりとよみがえってきた。

     3

「あなた、なにを考えているのですか」
 眞弓がふしんそうにたずねた。
「いや、すごい体験をしたんだよ、意識不明のあいだに……」
 わたしはゆっくりとした口調でいった。
「どんな体験なのですか」
 眞弓がからだを一歩のりだしながらいった。
「いつかオヤジを連れて山形から秋田のほうに旅をしたことがあったろう」
「ええ、ありましたわね。山寺から、最上川を下って……、それで象潟にいったじゃありませんか。からだの調子がよくないのに、どうしても芭蕉の歩いたところにいってみたいといいだしてきかないものだから……」
「そうだったな。どうもそのときの体験が見え隠れしているようなんだ。山寺の幻想的な風景なんかがあらわれたりして……」
「ちょうど、あのときは小雨が降っていて、霞がかかっていたので、ほんとうに淡い墨絵みたいだったでしょう。あなたもお父さんもすごく感動していたじゃないですか」
「うん。でも、おれよりもオヤジのほうが感激していたよ。晩年のオヤジは俳句三昧だったからな。オヤジにとって芭蕉は神さまみたいな存在じゃないか。その芭蕉は山寺で有名な句をよんだのだから」
「からだを支えてうえのほうまで連れて行って、ちゃんとお参りをさせてあげたじゃありませんか」
「歩くのがやっとだったもの」
「あなたに感謝していましたよ。こうやって俳句にうつつをぬかしていられるのもあなたのおかげだって……。あなたを信用していたのですよ。あいつは人形をつくるために生まれてきたような人間だっていうのが口癖でしたからね」
「ありがたいはなしだよ。でも、なんであのときの景色がでてきたんだろうな」
「ほかにもでてきたのですか」
「うん、花畑もでてきた」
「あのときもいっぱい咲いていましたからね、あちらこちらに」
 眞弓は目をほそめた。
「オレは花畑のうえをふわふわと遊泳していたんだよ。どこかで見たことのあるような花畑なんだよ。そうか、あのときの花畑だったんだ、きっと」
「でも、なんか不思議ですわね」
「そうなんだ。不思議といえばもっと不思議なことがあるんだ」
「どんなことかしら」
 わたしは寝返りをうって、眞弓を見つめた。眞弓は目をまるくしてわたしの言葉をまっているようだ。
「象潟にいったろう。あのとき日本海に落ちる夕日を見ただろう」
「ええ、おぼえていますよ、あの旅行のなかでいちばん感動的な場面でしたもの」
「オヤジも感動していたな」
「感動していたなんてものじゃありませんわよ。やっと歩いているひとが直立不動の姿勢になって、あれが浄土だ、あれが浄土だって叫んでいたじゃありませんか。大空を真っ赤に染めながら、ゆっくりと海面に沈んでいく太陽を見つめながら……」
「これでおもい残すことはなにもないっていっていたものな」
「なにかに出会えるとおもっていたんだ。ことによったら芭蕉もこんな浄土をさがしに旅にでたのかもしれないなんていっていましたね」
「オヤジはこの旅行から帰ってまもなく死んだんだなあ」
「そうですよ、半月あとでしたからね。おかげさんでいいところに行けそうだっていい残して……」
 わたしたちは沈黙した。
「あれよりももっとすごい落日があらわれたんだよ」
 わたしは沈黙をやぶった。
「花畑のうえを遊泳していると、いつの間にか大きな川のそばまで来ているんだ。それでどういうわけか、そこから先にはゆけないんだよ、遊泳しているというのに……。仕方がないから、そこでたちどまって、まえのほうに目をむけたんだ。するとどうだろう、象潟で見たよりももっとスケールの大きな太陽が目に入ったんだ。どこもここも黄金色に染めて、ゆっくりと沈んでいくんだ。オレは浄土だ! 浄土だ! と叫んで、その方向に飛んでいこうとしたんだ。すると、どんな現象が起こったとおもう」
「なんでしょう。ちょっと想像もつきませんわ」
「その落日のなかにオヤジの顔が見え隠れしはじめたんだ。おどろいたよ。いや、そればかりじゃないんだ。オヤジは真剣な顔つきをして、
「ここは自分から来ようとおもっても来られるところじゃないんだ。でも、心配するんじゃないぞ、来るときが来ればちゃんと迎え入れてくれるんだから。おまえばかりじゃなく、眞弓だって……」
 と、さとすようにいったんだ。
「ほんとうにお父さんはそういったのですか」
「そうさ、ウソをついてどうなる。オヤジはこんなこともいったんだ。おまえはからだもこころも自分のものだとおもっているかもしれないけれど、それはまちがっているというんだよ。もしほんとうなら、自分で自分のいのちが自由にできるはずじゃないか、年をとらないようにもできるはずじゃないか、死なないようにもできるはずじゃないか、とたたみかけてくるんだ」
 眞弓はあぜんとした顔つきをしている。
「そのうえで、からだだって、こころだって与えられたものだというんだ。おまえは人形師としては名人かもしれない。それだけの努力をしたかもしれない。でも、それだって、もともとは与えられたものだ、というんだ」
「ほんとうにそんなことまでいったのですか」
「そうなんだ。それで最後に、じぶんの自由にならないもので悩むなといったんだ。死ぬときが来ればいくらもがいても死ぬんだから、余計なことを考えずに、与えてくれた才能を活かして人形づくりにはげめというんだ。オレは頭がさがったよ。そのとおりだとおもったんだ」
 眞弓のまぶたから涙があふれた。
「それで、オレはなかば放心状態でいたんだ。それからどのくらいたったかわからないけれど、とおくから男と女のはなし声が聞こえて来たんだ」
「うれしかったわよ、あなたが目をあいたときは……」
「頭のなかにあった大きな重しがはずれたようなんだ」
「顔つきがちがいましたよ。別のひとのように明るくなったって感じで……」
「死へのとらわれから解放されたんだよ」
「倒れるまでのあなたは神経質でとても臆病でしたもの」
「死ぬことがこわかったんだ。いくら忘れようとしても忘れられないんだ。そうおもうとかえって、むこうからおいかけてくるようで……」
「よかったじゃありませんか。精神的にもすっきりして……」
「そうよ、いくら生きたいとおもっても、死ぬときが来れば死ぬんだからな。じぶんの意思ではどうにもならないこともあるんだ」
「いのちって、与えられているものなのですね、きっと」
「オヤジのいうとおりだよ」
 わたしは日をおって元気になって、予想よりも早く退院することができるようになった。「日常生活で気をつけることはありますか」
 退院に際して、わたしは主治医に問いかけた。
「あまり無理はしないことです。それだけ守ってくれれば、何年かは保障しますよ」
 主治医の岡田は威厳のある声でいった。
 何年かという言葉だけがわたしの頭に残った。だが、それも一瞬のことですぐに消えていった。

     4 

 退院した翌日からわたしは家業の人形づくりに精をだした。
「そんな無理はしないでくださいな。また悪くなったら元も子もありませんよ」
 休憩もしないで仕事に打ち込んでいるわたしのすがたをみて、妻の眞弓がいった。
「大丈夫だよ、気が張っているときは病気になんかなりっこないさ」
「そうよね、あなたは仕事に打ち込んでいるときは元気ですものね」
「発作を起こしたときは、これでおわりかとおもったんだ。それがこうやって仕事ができるんだからありがたいはなしじゃないか」
 わたしの仕事ぶりを見ていた眞弓が、
「あなた、なにをつくりはじめたんですか」
 と、いぶかしげな声をあげた。
 いつもとちがった段取りで仕事をしているのを不審におもったようだ。
「鍾馗さんに挑戦してみようとおもっているんだよ」
「そうだったのね、やっぱり」
 眞弓は語調をつよめていった。
 わたしは人形づくりあれば、雛人形だけではなく、そのほかにもいろいろ手がけてきた。鍾馗さんもそのひとつであるが、とりわけ鍾馗さんは厄除けの守り神として飾られる人形であるだけに、あの独特な迫力のある表情をだすのがことのほか難しいのだ。
「全快を記念して厄除けに鍾馗さんをつくるなんていいじゃないの。完成したら床の間にでも飾っておいたら……」
 眞弓は明るい声でいった。
「いやいや、オレには厄除けなんかいらないよ。青山さんのことが気にかかっているんだ」「そうそう、あの件はあとで引取りにうかがいますっていったら、そんなに気にしなくてもいいのにって……。でも、あなたらしいって、感心していましたわよ」
「そうか。はずかしいな、あんな人形を青山さんにわたしてしまって……」
 わたしはこころのなかで赤面した。
「それで、余裕ができてからでいいから、鍾馗さんをもうひとつつくって欲しいといっていましたよ」
「そうだろう、おそらく……」
「いそがなくともいいって、さかんにいっていましたけれどね」
「そうもいかないさ。どうせつくりはじめたんだから、これができたら届けるようにしようじゃないか」
 わたしははずんだ声でいった。
「あなたはお父さんにも鍛えられましたけれど、それとおなじくらい青山さんにも鍛えられたでしょう」
「そうだよ。青山さんがいてくれたから、これだけになれたのかもしれないな。とにかくするどいひとだからな。あんなひとをほんとうの目利きというんだろうな」
 眼光のするどい青山さんの顔が頭に浮かんだ。
「いいものとわるいものが一目でわかるひとですものね」
 わたしはうなずいた。

     5 

 大病を患ったことがウソのように体調がよかった。そのぶん、仕事がはかどって、おもったよりはやく鍾馗さんはできあがった。自分でも満足のできる仕上がりぶりである。さっそく、わたしは青山さんのところに届けるように眞弓にいった。
 つぎの仕事の段取りをしていると、眞弓が息をはずませながら帰ってきた。
「あなた、青山さんがなんていっていたかわかりますか」
 眞弓は興奮した口調でいった。
「あのひとのことだから、また……」
「それがちがうんですよ。鍾馗さんをひとめ見た瞬間に顔色が変わったのですよ。それからじっと鍾馗さんとにらめっこをしていて、ただ、う~ん、う~んというだけなのです。しばらくしてから、青山さん、どうしたのですか、と、おそるおそる聞くと、奥さん、この鍾馗さんの顔を見てみなさいよ、まるで生きているじゃないですか。それにこの迫力といったら……」
 真弓はことばをつづけた。
「それから青山さんはなんといったとおもいますか」
 わたしは首をふった。
「青山さんはウチの宝物にするのだといったのですよ。それからまた鍾馗さんとにらめっこをしているじゃないですか」
 眞弓は興奮がおさまらないらしく、ひとりでまくしたてている。
「青山さんにつられて、わたしも鍾馗さんに見入ったのです。やっぱり、青山さんがいうように、鍾馗さんが生きているようなのですよ」
 眞弓はそこで黙した。
「それから青山さんはなんていったとおもいますか」
 黙っていた眞弓がわたしに訴えかけるように口をひらいた。
 わたしは皆目想像がつかずに黙っていると、
「このまえの鍾馗さんの顔は死んでいたというのですよ」
「そうだろう、やっぱり」
「でも、こんど頼めばきっとあなたらしい作品をつくってくれるにちがいないと信じていたというではありませんか。わたし、感激しちゃって……」
「そうか青山さんがそんなことをいってくれたのか。人形師冥利に尽きるじゃないか」
「わたし、このまえもいったけれど、あなたが元気になってはじめてつくった作品だから、できれば誰にもわたさずにウチの床の間に飾っておけばいいのにとおもったのですよ。でも、いまから考えると、やっぱり、青山さんに届けてよかったとおもっていますのよ」
「このまえにいったろう、オレにはそんなものはいらないって。オヤジのいいつけを守って、人形さえつくっていればそれでいいんだよ」
 わたしは眞弓にそうかたりかけた。
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風紋

 わたしは知り合いの絵画サークルの主催する裸婦の写生会の講師に招かれて、二泊三日の日程で房総の九十九里海岸近くのホテルに滞在していた。二日目の写生会は午後の四時ごろにおわった。まだ夕食までには時間があるので、わたしはひとりで海岸へ散歩に出かけた。風がつよかったが季節が初夏とあって、頬にうける涼風は気持ちがよかった。
 海岸についたわたしは、眼前にひろがっている太平洋に目をむけた。今朝方もおなじ場所を歩いたが、そのときのおだやかな海とちがって、海面には白波がたっていた。
わたしは海岸に目を転じてみた。淡いピンクの花がわたしの目をとらえた。浜昼顔が浜一面に点在しているのだ。だが、その景観も朝方とはちがっている。朝方は、花びらをいっぱいにひろげて、いまを盛りに咲き誇っていたのであるが、その勢いが失せて、いっせいに花びらをとじかけている。よく見てみると、盛りをすぎて、散りかけている花もあれば、すでに変色している花もある。

わたしはちかくの防波堤に腰をおろして、浜昼顔の群落に目をおとしていると、ふと、自分のこれまで歩んできた足跡が思い起こされた。わたしはことしで五十五歳になるが、
美術学校を出た二十二の年から絵を描くことを生業としている。それも裸婦を描くことだけに専念してきたのである。
わたしが裸婦に興味をもちはじめたのは高校二年のときであった。そのときに目にした裸婦がわたしの生涯を決定したといっても過言ではない。そのころ、わたしの実家の近くには一軒の画廊があった。たまたまその画廊のまえを通りかかると、そこの一室で裸婦の写生会がひらかれていたのである。興味をもってのぞいてみると、中年の男たちが真剣なまなざしをして、裸の女をみつめながら、画紙のうえに筆を走らせているのだ。その光景を一瞥した瞬間にわたしの胸は高鳴った。わたしは一時間あとには、画用紙と鉛筆をもって画廊のなかに立ちすくんでいた。
「なんだ、キミも描いたいのか、となりが空いているからすわりな」
 中年の男のひとりが気軽に声をかけてくれた。
 わたしは中年の男たちにまじって無我夢中で画用紙のうえに鉛筆を走らせた。
 やがて、写生会がおわった。
「オレたちもこのくらいの年から描いていれば、もうすこしまともな裸婦が描けるようになったかもしれないな」
「そのとおりだ、早いにこしたことはない。でも、オレたちにはできない相談だったよ」
 中年すぎの男たちが、わたしをうらやむことばをのこして画廊をあとにしていった。
 写生会場はモデルとわたしのふたりだけになった。
「ちょっとデッサンをみせてもらってもいいかしら」
 モデルから声がかかった。わたしは気軽に差し出した。
 モデルはわたしの描いたつたないデッサンに目をとめていたが、
「キミの将来に期待しちゃうな。おじさんたちの仲に入って、こんなデッサンが描けるんだから・・・・」
 と、はげましのことばをかけてくれた。
 その時点でわたしの進路はきまったのだ。父親のすすめもあって、理科系の学校にすすむことにしていたが、わたしは迷うことなく美術学校に進路をかえた。
 あれから四十年ちかくの歳月が流れている。

「どうしたら先生のようなリアリティのある裸婦が描けるんでしょうか」
 絵画サークルのメンバーの声が聞こえてくる。
 昨夜は夕食がおわってから懇親会がもたれた。その席での発言である。
「それは技量を磨くだけでは無理ですな。あとは、自分で見つけ出すしかありませんね」
と、わたしはいった。男は間髪を入れずに、
「そんなつれないことをいわないで、ちょっとでもいいから裏技をおしえてくれませんか」
 と、執拗にせまってくる。
「描くまえにモデルを愛撫することですよ。まろやかなやわらかい肌がピンク色に染まるまで愛撫することです。そのうえで描くんです。キャンバスになぞる一筆一筆は愛撫のあかしなんです」
 わたしはながいあいだ実践していることをそのまま口にした。
「それはどだい無理な話です。うちの女房なんかわたしが裸婦を描いていることが気に入らないのですから、そんなことをしたら家庭崩壊ですわ」
 メンバーのひとりがしんみりした口調でいった。
 「その点ではわたしも苦労しました」
 わたしは秘密をうちあけた。
「それでもやめられないのですね」
「病気かもしれませんね。ひとりの女性じゃ満足できないんですから」
「そういえば、先生の描く裸婦はモデルがかわるたびに変化していますね」
 長老格のメンバーが口をはさんだ。
「よく観察されていますね」
「先生の作品をみて、ピカソみたいだとおもったことがあるんですよ」
「それは光栄の至りです。とくべつピカソを意識したことはありませんけれど、結果としておなじように感じるかもしれませんね」
「ピカソは許せませんわ。つぎつぎに女をかえたばかりか、女のからだを玩具のようにもてあそんで、絵の材料にしてきたのですから・・・・」
 メンバーのなかには女性がふたり参加していたが、そのうちのひとりが渋面をつくりながらいった。
 わたしは反論のことばがなかった。決して、彼女たちを玩具のようにおもてあそぼうという気持ちはなかったけれども、結果として、そんな指弾を受けてもやむえない経験があるのだ。
「キミさえいてくれたら、オレはずっとすばらしい裸婦を描きつづけることができるんだ」わたしは臆面もなくそういって、彼女の魅力を引き出してきたのだ。
「あなたの芸術のためなら、わたしはどんなことでもします」
 彼女はそういって、わたしの意のままの女になっていた。だが、そんな歳月もながくつづくことはなかった。べつの女性にあたらしい魅力を感じはじめるのだ。
「あのときのあなたのことばはわたしのからだを自由にしたかったからなの、ただそれだけなの」
 わたしを詰問する女の声が聞こえてくる。
「わかれてあげるわよ、わたしに魅力がなくなったから、そんなことをいうのでしょう」
 そういって、いさぎよく自分から身を引いていった女性もいる。
 彼女たちとわかれるたびにわたしは懺悔の念にかられた。ときには、謝罪のことばをつらねて、よりをもどしたこともある。
「これからはプロのモデルだけにするよ」
彼女のまえでそう誓いをたてたこともある。

「先生もプロの女性をモデルにつかうことがあるんでしょう」
 長老が話題をかえた。
「もちろんあります。でも、プロのモデルをつかうときでも、わたしはすぐに筆をとったことはありません。食べ物や服装の好みを聞いたり、それとなく、プロポーションをほめたたえたりしながら、機が熟するのをまちつづけるのです。澄ましきった化けの皮をぬぎすてて、描いてくださいという欲望があらわになるまで忍耐をするのです」
「ときには、そんな感情にいたらないこともあるわけでしょう」
 アルコールが入っているせいか、メンバーたちがつぎつぎに疑問のことばをなげかけてくる。
「ざらにあります。そんなときには縁がなかったものとあきらめます」
「やはり、先生は素人のモデルさんのほうに興味があるようですね」
「そうです。裸になることになれきっているモデルには興味がわかないんです。ためらいの感情をあらわさないモデルには食指がはたらかないんです」
「おことばですけれど、プロのモデルをつかっても、後世にまで名ののこる傑作をのこしている画家もおられるではありませんか」
「おっしゃるとおりです。だから、さいしょに申しましたでしょう、みなさんがそれぞれ自分で見つけ出すより方法はないんです」
「先生の場合はあくまでも素人のモデルさんにこだわるのですね」
 わたしの脳裏には、これまでに描いた裸婦のうちで、世評も高く、自分でも気に入っている何点かの裸婦が浮かんできた。いずれもプロのモデルではなく、わたしと恋愛関係にあった女性たちである。
「誤解を恐れずに申しあげますと、わたしは恋愛の感情にかられて裸婦を描いてきたような気がするんです。女性が男のまえではだかになるということは大変なことです。うぬぼれているようですけれど、彼女たちがヌードになったのは、わたしを愛していたからです。愛がないのに彼女たちがはだかになれるはずがないとわたしは信じています」
「それもピカソとおなじではないですか」
「そうかもしれません」
わたしはそれだけで黙した。
しばし、沈黙のときがながれた。
「ピカソのことが話題になっていますけれど、ピカソの絵って、ほんとうに傑作なのでしょうか」
 もう一人女性が沈黙をやぶった。
「画家は自分の目にみえるものを描いているんですけれど、いつも画家の頭のなかにはその背後にあるものも描きたいという願望をもっているんです。ピカソは『アヴィニオンの娘たち』を描くことによって、それが可能であることを実証したのですから、やはり偉大なんでしょうね」
「でも、あの絵はグロテスクですね」
「わたしはデフォルメでは、ほんとうの裸婦の美しさは出せないとおもっているんです。モデルになった女性自身が愛情と欲情をもって迫ってくるときの、あのリアルな姿態を描いた裸婦にまさるものはないと信じているんです」
 わたしは躊躇なく断言した。

 ふと、わたしは太平洋の大海原にむけていた視線を足元に目をむけてみた。風がいちだんと強くなって、風紋ができているのがわかる。風がつよくなるたびに砂がうごきはじめる。風が息をつくと、うごかない砂にもどっている。まるで生き物のようにそれをくりかえしている。
わたしはその光景に目を凝らしているうちに、恋愛関係にあった女たちとの愛欲のあとがおもい起こされた。風紋がおりなしている光景にわたしの愛撫をうけながら身をくねらせている女のすがたがかさなっていく。風がつよく吹きはじめる。それにあわせて風紋のうごきがはげしくなる。彼女のうごきもはげしさをましはじめる。ことのほか羞恥心のつよい女が四肢ゆたかな肉体をわたしの眼前にさらけ出していく。わたしはそのときの微妙な姿態を頭とからだのなかにやきつける。
彼女を描いているときの情景がまぶたをかすめる。わたしの関心事はもっぱら彼女からいかにして、最大限の美を引き出せるか、その一点にそそがれている。また、風がつよくなりはじめる。風紋のもとに目をむけると、砂は微妙に変化しながらうごいている。それにソファによこたわっている彼女のからだがかさなる。
「そのいまのポーズをくずさないで・・・・。じつにいい、すばらしい、なんともいえないくらいに・・・・」
 わたしは最大限の賛辞のことばをおくる。
もはや、彼女はからだばかりか、心までもはだかになりはじめている。
「わたしはほんとうに美しいのね」
 彼女のいったひとことが耳にこだまする。
「美しいさ、そのポーズも、その顔も、ことばにならないくらい・・・・」
 彼女は女に生まれてきた歓びをからだ全体で表現しはじめる。わたしはしはじっと風紋をみつめなおしてみる。砂がうごきはじめている。彼女の顔の表情がにわかに変化していく。デッサンをするわたしの手のうごきがはげしくなっていく。

わたしははっとして頭をあげた。そのままうつろな目を眼前の海面のうえになげかけた。白波がたったかとおもうと、すぐに消えている。わたしは自分の描いてきた裸婦におもいをはせてみると、夢か幻の世界をさ迷ってきたようなおもいにかられる。彼女たちが演じたあの一瞬の美は二度と再現のしようがない。夢のなかのひとこまのようにおもわれる。だが、たんなる夢ともおもえない。あのしっとりとした肌の感触はこの手がおぼえている。豊潤な薫りをはなっていたあの姿態はわたしのこの鼻がおぼえている。彼女たちを描いた作品が頭をよぎる。それでいて、わたしの心は複雑にゆれうごく。ひさしぶりに再会したときの彼女のすがたがまぶたをかすめる。
わたしはふっと吐息をつきながら浜昼顔のもとに目をむけた。
                                  (了)


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情婦

      1 

 開演をつげるブザーが鳴った。
 東京の近郊にあるストリップ劇場「Q」は日曜日とあって、多くの観客がつめかけて開演を待ちわびている。そんな観客たちに混じって、痩せぎすの体型で眼孔のふかい五十年配の身なりのきちんとした男がひとりいた。
「まずは新進気鋭の立花かおりさんの出番です。かおりさん、はりきってどうぞ!」
 幕がひらくと同時に初陣をかざる踊り子の紹介が場内につげられる。立花かおりにとってはこの日が初舞台であった。
 場内からは拍手がわきあがった。だが、五十年配の男は拍手の仲間にくわわらずに、するどい眼光を舞台に向けたままである。
 照明がいっせいに消され、場内は暗闇になった。一呼吸おいて、場内二階の照明席から一条の赤いスポットライトが舞台右側の奥まったところにそそがれる。スポットライトはしばらく一点でとどまっていたが、やがて、ひとつの輪となって大きくひろがっていく。その赤い輪のなかには、ひとりの踊り子の姿があった。それが立花かおりなのだ。赤一色であったスポットライトにくわえて、青や黄色もくわわり、照明度も増していった。何色かのスポットライトを浴びた立花かおりの姿態が舞台のうえにはっきりと見えはじめるにつれて、観客たちの視線がこの無名の踊り子のもとにそそがれはじめている。その視線にさらされながら立花かおりは軽快な音楽のリズムにあわせて舞台の中央にすすみでた。
「よう、待ってました」
 いちばんまえの席に座っている年配の男が大きな声をあげた。
 それに呼応するように、
「ピチピチねえちゃんじゃねえか」
 と、反対側の席から声がかかった。
 例の男はするどいまなざしで立花かおりの演技を見守っていたが、
「もっと力を抜け、力を!」
 と、とつぜん、大きな声をあげて、頭を左右にふった。だが、かおりは緊張のあまり、男のいったことがわからないようだ。
 やがて、かおりはおもむろに羽織っていた薄手の衣装をぬいで全裸になった。その瞬間に観客の目がいっせいにかおりのもと向けられた。なかには身をのりだして見つめている観客もいる。
 二階の照明席からは赤や青のスポットライトが交互にかおりのからだにそそがれている。もともと弾力のある艶やかなからだが照明をうけて、妖艶な出で立ちを醸しだしている。観客たちの視線はかおりのからだのうえに張りついたままうごこうとしない。
「最後までもつかな」
 例の男はひとりごとをいった。
 その直後のことであった。からだを舞台のうえによこたえて必死になって演技をしていたかおりがにわかに立ちあがると、そのまま早足に舞台をあとにしたのだ。
 男はすぐにかおりのあとをおった。
「かおり、どうしたんだ」
 かおりの背後から男がどなった。
 ふりむいたかおりは目にいっぱい涙をためて、一目散に男のもとへ駆け寄ると、
「お父ちゃん、ごめんなさい。お客さんの目が怖くて……」
 といって、男の腕のなかに泣きくずれた。かおりはそのころから男のことをお父ちゃんと呼んでいた。
「そんなことはないんだよ」
 男はかおりの背中に手をかけながらやさしい声でいった。
「だって、お客さんがいっせいにわたしのからだを見つめるんですもの」
 かおりは泣き声のままいった。
「それはかおりのからだが魅力があるからなんだ。醜かったらだれもかおりのからだなんか見つめやしないさ。なんかいもいったけれど、見つめられるってことはかおりにとっては名誉なことなんだ」
 男はかおりの両肩に手をあてがって、さとすような口調でいった。その言葉にかおりはうなずいた。
 この世界に立花かおりを引き入れたのが、この高野喜八という男なのだ。

       2 

――この女はソロのストリッパーとしてものになる。ことによったら、あいつのうえをゆくかも……。
 喜八はかおりを一瞥するなり、長年の経験からそう判断した。
 かおりはからだつきも顔立ちもまだ乙女の名残をただよわせているが、それでいながら、すでにどことなく男を引きつける魔力の片鱗がうかがえる。
――こんな女は万にひとりもいやしない。これでようやくあいつにも顔向けができるかも知れないぞ。
 喜八は内心でニッコリ笑った。
 喜八は抜群のプロポーションの女がいるといって知人からかおりを紹介されたのだ。だが、会って見ると、かおりは意外なことを口にした。
「おじさんに頼めば女優になれるかも知れないっていわれたものだから……」
 かおりは屈託のない顔つきをしながら喜八と面会する気持ちになった動機をあかした。女優になりたいと哀願しているかおりをまえにして、喜八は別の計算をしていた。
「キミの気持ちはわかる。でも、女優になるには世の中に名前が知られなければだめなんだよ」
 喜八は真剣な表情をつくろっていった。
「それにはどうしたらいいのでしょうか」
 かおりは目をまるくしながら喜八にたずねた。
「それは踊り子になることだよ。キミにはそれだけの素質がある。オレが立派な踊り子にしてみせる」
「踊り子って、お客さんのまえで裸になるんでしょう」
 かおりは首をよこにふりながらいった。
「なにか勘違いをしているんじゃないかい。お客さんはおカネをだして、踊り子の裸を見に来てくれるんだぞ。キミはそれだけの魅力のある人間になれるんだ。そうすれば、キミの名前も知れわたる。女優はそれからでも遅くはない。まだ若いんだから……」
 その言葉が決め手となってかおりは喜八の手のなかにおちたのだ。

      3 

 初舞台では羞恥心に打ちのめされたかおりであったが、それから舞台になれるまでにはさしたる時間はかからなかった。しばらくすると、初舞台のような大入りの観客をまえにしても、それなりの演技ができるようになっていった。その日も大入りの観客をまえにして、まだぎこちなさは残ってはいるものの、かおりは豊満なからだを縦横に駆使して観客を楽しませた。
「よう、ねえちゃん、もっとこっちに来て、からだのすみまで見せてくれや」
 そんな声に恥じらいながらも、観客の要望を受け入れるだけの余裕さえみられるようになっていった。
 そんなかおりの演技を喜八は観客のなかに混じって、真剣なまなざしで観察していた。
「あんまり、素直にお客のいうことを聞いちゃいけないんだ。もっと、恥じらいながらお客をじらす工夫をするんだよ」
 舞台をおえて楽屋に帰って来たかおりを待ちかねて喜八がいった。
 かおりは黙ってうなずいた。
「からだのこなし方はだいぶスムーズになったけれど、手足の使い方はまだぎこちないんだ。それに視線の置き方がまずい。色気がないんだよ、おまえは……」
 喜八の指導は厳しかった。
「そんなことで、立派な踊り子になれるとでもおもっているのか。名前を知られたくはないのか。女優はどうしたんだ」
 厳しい言葉が矢つぎばやにかおりに襲いかかることもあった。だが、かおりは歯をくいしばって喜八の指導にたえた。
 その甲斐があって、一年が過ぎるころとなると、かおりは喜八の期待をはるかに超えるほどの演技力を身につけていた。
 同時に観客のあいだでも評判を呼ぶようになっていった。好事家のなかには、天恵ともおもえるかおりの妖艶な肉体のとりことなって、彼女の舞台を見るためだけで劇場まで足をはこぶ観客が何人もあらわれるまでになっていった。
「かおり、オレのいったとおりになってきたろう。おまえの演技を見るためにだけやってくるお客がいるようになったじゃないか」
「わたし、お父ちゃんを信じてよかったわ。もっと、顔が知れるようになったら、女優になれるわよね」
「なれるさ。世間さまにかおりの存在が知れわたるようになれば、映画会社のほうから引き抜きに来るかも知れないぞ」
「わたし、そのときまで絶対にがんばるからね」
 かおりはそういって喜八の胸に顔をうずめた。
――これでほんとうにあいつにも顔向けができるようになれそうだ。
 喜八はこころのなかでつぶやいた。
 喜八の脳裏にはひとりの女の姿がよみがえっている。かおりにまけないような妖艶な出で立ちの女だ。
――もう六年もまえのことか。
 喜八はひとり感慨にふけっている。
 そのころ喜八はひとりの踊り子を世にだしたのだ。身なりはかおりよりもひとまわりこぶりであったが、おなじように天賦の才能を身につけていた。先天的に男の欲情をそそりたたせる術をこころえていたのだ。
――この女は一世を風靡するようなストリッパーになる。 
胸をはって喜八は宣言した。
 喜八の目はたしかであった。じょじょに好事家のあいだに彼女の評判はひろまっていった。女をめあてに訪れるお客もふえていった。だが、これでひと儲けできると皮算用にふけっていた矢先のことである。女は交通事故で急逝したのだ。美容院で髪を結いおわると、舞台の時間が切迫していたという。女は美容院の従業員に劇場まで送ってもらうことにしたのだ。
 事故はその途中で発生した。運転をしていた従業員は女から急かされていたので、本来なら停止しなければならないT字路をかなりのスピードで走り抜けた。そこへ反対車線からやってきた小型のダンプカーと正面衝突をしたのだ。従業員は大けがをしたが、一命はとりとめた。だが、女の方はその翌日に帰らぬひととなってしまった。
 喜八が病院に駆けつけたときには、女はすでに意識が朦朧としていた。それでも、うわごとのように、くやしい、くやしいとつぶやいていた。
「わかるか、オレだよ、オレ」
 喜八が女の手をにぎりながら、そうさけぶと、女はかすかに目をあけて、
「ごめんなさい、もっと舞台に立って、恩返しがしたかったのに……」
 女は目にいっぱい涙をためながらとぎれとぎれの声でいった。
「わかった、わっかった。きっとおまえの身代わりをさがしだして、世の中にだしてみせる」
 喜八は女の両手をしっかりとにぎりしめた。女もかすかににぎり返してきた。その女の源氏名も立花かおりであった。
 それからは、二代目の立花かおりをさがしだすことが喜八にとって大きな仕事となった。その大仕事にもどうやら目途がつきはじめたのだ。

      4 

 かおりの評判が高まるにつれて喜八はかおりのマネジャーとしての役割も担うようになっていった。かおりは金銭にはまったくといっていいほど無頓着な女であった。
「からだを張って仕事をしているのよ。稼ぎはガラス張りにしてもらわないと……」
 なんかいとなく踊り子から聞かされた言葉である。それだけに喜八にとっては忘れがたい。ときには、じぶんが育てた踊り子からも、そういって、せめられたこともある。だが、かおりはちがっていた。すべてを喜八にゆだねて頓着がないのだ。
「わたし、お父ちゃんを信じているんだ。お父ちゃんはわたしをだますようなひとじゃないよね」
 かおりはことあるごとにそんな言葉をくりかえした。
「そうだとも、オレを信じていればいいんだよ」
「いつか、女優になれるんだよね」
「そうさ、かおりは才能があるからきっとなれるさ」
 喜八はときにはうしろめたい感情を起こしながらも、きまってそういってかおりをおだてた。
 それからもかおりの評判は上々であった。立花かおりを見るために劇場にやってくる好事家の数はうなぎのぼりにふえていった。彼らは競いあっていちばんまえの席を取りあい、かおりの出番をまった。
 かおりの出番がつげられただけで、場内から拍手がわき起こった。スポットライトに照らされて、かおりが姿をあらわすと、拍手は波をうつようにひろがっていき、場内にこだました。そのなかを立花かおりは妖艶な肉体をくねらせながら、舞台の中央まですすみでると、観客たちの視線は一糸乱れずにかおりの裸体のうえにそそがれるのだ。
 その日もかおりはじぶんの裸体を自在にあやつって、観客を魅了させてからひとりの観客のまえで立ちどまり、膝をおった。
「おじさん、いつも来てくれてありがとうね。どこから来るの」
 かおりは観客とも気軽にはなしをするようになっていた。
「茨城のはずれの方から来るんだ。二時間半もかけてな」
「そんなに遠くから来てくれるんだ」
「そうだよ。でも、ちっとも苦にならないんだ。あんたのはだかを見ただけで元気になれるんだからな」
「そうなの、うれしいね。じゃ、また来てくれるよね」
 かおりがタバコに火をつけて差しだすと、六十年配の男はしきりに頭をさげながらそのタバコを受けとって、さっそく口にくわえて、満足そうにけむりをはいた。
 あいかわらず、かおりが舞台にあがっているときは、きまって喜八も観客にまじって客席のなかにいた。観客たちの反応をさぐり、それを指導の糧としていたのだ。
 舞台がおわると、かおりはその日の舞台のできぐあいを喜八にたずねた。
「きょうの舞台はどうだった」
 その日もかおりはさっそく喜八に聞いた。
「うん、演技に艶がでてきたよ。指の先にまで神経がゆきとどくようになってきたようだな」
「ほんと、やっぱり、お父ちゃんにいわれるとおりにやると、うまくいくみたいだね」
 かおりは童顔になって喜八の顔をのぞきこんだ。
「でも、それで安心したらだめだぞ。まだ、目の使い方がなってないな。どうしたら潤んだ目つきができるのか、じぶんで探求してみることだ。それが宿題だな」
 喜八は威厳に満ちた声でいいわたした。かおりは黙ってうなずいた。
 かおりは喜八のいいつけをしっかりと守って、つぎの舞台ではその宿題に挑戦した。
「お父ちゃん、どうだったかしら、宿題の方は……」
「うん、よくやった、完璧だったな」
 喜八は相好をくずしていった。
「やったね、一回でやったね」
 かおりは子どものようにはしゃぎながら喜八に抱きついた。
 それからもかおりは舞台がおわると、そのできぐあいを喜八にたずねた。だが、じょじょに、喜八の口からは、きょうもよかったな、ということが多くなっていった。

      5 

 立花かおりは踊り子になるために生れてきたような女であった。じょじょに喜八の指導を必要としなくなっていった。観客を喜ばせるためにはどこの段階でどんな演技をすればよいのか、妖艶な表情を醸しだすにはどのような仕草をすればよいのか、かおりは本能的にそのノウハウを身につけはじめていた。
「もう、おまえには指導することはなにもない。自由にやればいいんだ」
 喜八は舞台がおわったかおりにそう宣言した。
「ほんとう。でも、お父ちゃんになにもいってもらえないとさびしいな」
「そんなことはないさ。かおりにはこの仕事が天職なんだ。オレがついていなくとも、じゅうぶんにお客さんを満足させることができるさ」
 喜八はかおりの肩をポンとたたいた。
 その翌日からは喜八は客席に足をはこばなくなった。喜八の仕事はもっぱら出演の要請があった劇場とのスケジュール調整と出演料の交渉になっていった。
 かおりの知名度はさらにあがって、喜八は出演の調整に苦労するまでになっていたのだ。出演料もほとんど喜八が提示した額で決着がついた。
 暇ができて、カネが自由になると、またわるい虫が喜八に誘惑の手をのばさせた。決別したはずの博打に手をだしはじめたのだ。
 喜八には賭けごとの道楽のあることもかおりは知っていた。それなのに、あいかわらず、かおりは喜八を信頼しているようであった。
「わたし、お父ちゃんといっしょにいれれば、女優なんかにならなくともいいわ」
 かおりはふとそんなことを口走るまでになっていた。
 そんな言葉を聞いて喜八は複雑な心境になったが、その反面で、
――オレはこの女の身も心もつかんでいるのだ、絶対にオレから逃げだすことはない。
 と、たかをくくるようにもなっていった。
 喜八は放蕩三昧の日々を送るようになっていった。かおりのもとに帰るのは三日のうちに二日は午前様であった。それでも喜八が予想したように、かおりは愚痴をこぼさないばかりか、逃げだすようなそぶりさえ見せなかった。
 そんな生活が半年ほどつづいたある日のことである。
「お父ちゃん、わたしをだまさないでね」
 かおりはそれだけいうと涙にくれた。
「なんだ、やぶからぼうに……。オレはかおりをだまそうなんておもったことは、一回だってありやしないぞ。女優の話だって、知り合いに口をかけてあるんだ」
 喜八はかおりを見つめながらいった。
「わたし、ゆうべ夢を見たのよ」
 かおりは真剣なまなざしを喜八に向けていた。
「どんな夢を見たんだ」
 喜八はかおりから視線をはずした。
「お父ちゃんが借金をいっぱい残して、どこかへいってしまった夢なのよ」
 かおりは逃げる喜八の目を追った。
「やっぱり、おまえはオレを疑っているんだな」
「だって、わたしにはいやな経験があるんだもの」
「どんな経験なんだよ」
「父親がひどいひとだったの。博打に負けて、借金のかたにわたしたち家族が住んでいる家までわたして、どこかにいってしまったのよ。それからはもう地獄のような生活が……」
「なんだ、オレをそんなひどい人間だとおもっていたのか」
 喜八は声を荒らげて、かおりをにらめつけた。
「お父ちゃんにかぎって、そんなことはないとおもったけれど、心配だったから……」
 涙にむせびながらかおりがいった。
 その翌日も喜八はまだかおりが舞台に立っている時間帯なのに遊び仲間と花札賭博に興じていた。小娘だとばかりおもっていたかおりに説教されたことが胸にこたえていた。そうかといって、すぐにまじめな生活をする気持ちにもなれない。喜八が半分やけ気味に賭博に興じて、かおりのもとに帰りついたときにはとうに一時がまわっていた。
 寝室に入ってみると、かおりはすでに眠っていた。喜八は物音をたてずにすばやく着替えをすませると、静かにかおりのかたわらに忍び込んだ。舞台でつかれているのか、かおりは目をさます様子はない。
 喜八はじっと目をつむった。だが、なかなか寝つかれそうにない。ふと、となりで軽い寝息をたてているかおりが気になった。喜八は上体を起こしてかおりの寝顔をのぞきこんでみた。室内は豆電球の明かりだけであるが、かおりの顔は見とどけることができる。喜八はなおもかおりの顔のちかくまでじぶんの顔をちかづけてみた。
 その瞬間に喜八ははっとして、自分の目をうたがった。かおりの顔から一切の邪念が消えて慈悲ぶかい観音さまのような顔だちをしているのだ。それでも喜八が目を凝らしてじっと見入っていると、かおりの顔が変化をして、交通事故で急逝した一代目の立花かおりの顔になっている。彼女は疑いのまなざしで喜八を見つめている。そのうち、頭をよこにふりはじめた。そんな錯覚にとらわれていた喜八がまばたきをひとつすると、われに返っていた。かおりが屈託のない顔をして熟睡している。
――すまなかった。
 喜八はこころのなかでそうつぶやくと、放心したようにかおりのとなりによこたわった。
「わたし、どんなことがあっても、女優になるまでがんばるからね」
 甲高いかおりの声が耳をつく。
 それが最近では、じぶんと一緒にいられれば女優なんかにならなくともいいとまでいっている。
 喜八は目をつむったまま呻吟した。かおりはあいかわらず軽い寝息をたててふかい眠りにおちている。喜八は上半身を起こして頭をたれた。

      6 

 翌日から喜八は別人のような人間になっていた。かおりに尽くすことがじぶんの生きる道であると肝に命じたのだ。喜八はまたもや観客にまじってかおりの舞台を観賞するようになっていた。
「やっぱり、かおりの演技は天下一品だ。あんなにお客さんを魅了できる踊り子なんてかおりをおいてほかにいやしないさ」
 喜八は真剣な顔つきをしていった。
「お父ちゃんから褒めてもらうのは久しぶりだわ。でも、うれしい!」
 かおりは満面に笑みをたたえながらいった。
 喜八の言葉はウソではなかった。喜八がかおりの舞台を見なくなったあいだにも、かおりの演技にはいちだんと磨きがかかっていた。喜八が指導のために口をさしはさむ余地なぞまったくなかった。それどころか、赤や青のスポットライトを浴びながら、かおりが舞台にあらわれただけで、喜八は桃源郷にいるような心境になった。照明に照らしだされて、自在にうごめくかおりの裸体は、喜八にとって官能の極致であり、ときにはそれさえも超越した存在のようにおもえてくるのだ。
 あいかわらず、遠路はるばると、ときには仕事をなげうってまで、かおりの舞台を見るためにだけやってくる観客があとをきらなかったが、それらの観客におとらず、喜八もかおりの舞台にのめり込んでいった。
 そればかりか、しばらくすると、喜八のかおりに対するおもい入れは、いちだんと深くなっていった。
「お父ちゃん、きょうはどうだった」
 例によって、かおりがその日の舞台のできぐあいを聞いた。
「よかった。じつによかったよ。天女が舞っているようだった。天女じゃなければあんな演技はできやしないさ」
 喜八は最大級の賛辞をかおりに送った。
「ほんとう、ほんとうにそうなのね。お父ちゃん、わたし、うれしい。あしたもがんばるからね」
 かおりはそういって、かつてのように喜八の胸に顔をうずめた。
 かおりにとっても喜八はいなくてはならない存在になっていた。
 その日も喜八は観客に混じってかおりの舞台を観賞していた。かおりは舞台の中央によこたわって、すらりとした両足を交互にあげた。
 かおりの舞台はこれから本番を迎えようとしているのだ。場内からはいっせいに拍手がわき起こる。かおりの一挙手一投足に観客たちの視線がうごく。
 それに応えて、かおりはしなやかなからだを自在にゆすって、観客たちの欲情をそそりはじめる。場内は熱気につつまれながらも静まりかえっていく。かおりの演技が観客たちを魅了しはじめたのだ。
 観客ばかりではなかった。喜八も真剣なまなざしをかおりの裸体のうえに投げかけている。だが、観客たちとちがって、喜八にとっては、かおりはたんに欲情をかりたて、官能を充足させるだけの存在ではなくなっていた。かおりははるかにそれらの存在を超越していたのだ。それはまさに天女が舞っているという表現がふさわしかった。喜八はすべてを忘れて、恍惚の状態になりながら、その天女の演技に見入った。
「きょうの舞台どうだった」
 いつものようにかおりがいった。
「口にはだせないよ、そんなこと」
 喜八はそういって、かおりを抱きしめた。

      7 

 その晩もふたりは舞台をおえて、いっしょに家路についた。北風のふきすさぶ寒い夜である。ふたりは寄り添いながら早足で歩いている。
「もう八年ちかくになるのか」
 喜八がポツリと口をひらいた。
「なにが八年なの」
 かおりが不審そうに聞いた。
「なにがって……。おまえさんをこの世界に引きずり込んでからさあ」
「お父ちゃん、まだそんなことを気にしてるの」
「だって、女優になりたかったんだろう」
「うん、なりたかったわ。いまでもなりたいわよ、ほんとうに……」
「そうだろうな。それなのに……。オレってわるい男だよ。純情なおまえをだましたんだからな」
 喜八はしんみりとした口調でいった。
 とつぜん、かおりが声をたてて笑った。
「なんだ、なにがおかしいんだ」
 喜八がかおりの顔をのぞき込んだ。かおりは満面に笑みを浮かべて、
「うそよ、うそに決まっているじゃないの。このごろ、お父ちゃんってまじめすぎるんだから……」
 と、かおりはいたずらっぽい目つきをした。
「なんだ意地がわるいな、年寄りをからかうなんて……。もう、だいぶまえのことだけれど、女優になることをあきらめたといったことがあっただろう」
「たしかにいったわよ」
「あのときから、気にしていたんだよ」
「わたしの方はそのころからあきらめていたのよ」
「それはわるかったな」
「いや、かまわないのよ。女優になるよりもよかったかも知れないわ」
「……」
「お父ちゃん、わたし、いまがいちばん幸せなの。ほんとうにそうおもってるのよ。ウソじゃないんだから」
 かおりはそういって、喜八の方へからだをあずけた。喜八はかおりの肩にやさしく手をかけた。
(了)

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