渋滞のあと
橋本は憂鬱な顔つきをしている。
「あなたには、世話になったことがあるので、なんとかしたいのですけれど‥‥」
二時間前にあったばかりの男の声が聞こえてくる。
橋本が経営している食品販売会社の取引先のひとつに資金繰りが悪化している会社があった。本来ならば、取引を断るところであったが、橋本が商売をはじめたころからなにくれとなく世話をしてくれたこともあって、厚意で取引をしたのである。
だが、それが裏目に出て、相手の会社が倒産したばかりか、橋本の会社も商品の代金が回収できずに倒産の危機に直面しているのだ。橋本は取引のある銀行につなぎの融資を頼んだもののすべて断られた。
やむなく、高利を承知のうえで消費者金融にも手を出したが、それでも窮状を脱することができないでいる。残すところは、かつて窮状を救ってやったことのある、友人に頼みこむことだけであった。
橋本は藁にもすがるおもいで、その友人のところへ出かけていったのであるが、ていよく断られて、東京の郊外にある事務所へ帰ってきたところなのである。
橋本はじっと目をつむった。
「これでなんとかなります。この恩は生涯忘れません」
男はぺこぺこと頭をさげたばかりか、目には涙を浮かべている。
――あのときの恩義はどうした。
橋本は心のなかで憤りの声をあげた。だが、しばらくすると、
――ほんとうに苦しいのかもしれない。
そんな感情が頭をもたげる。
机のうえの電話が鳴った。
「ああ、オレだけれど‥‥」
聞きなれた声に橋本はどきりとした。
「あの、お袋が危篤なんだよ。まだかすかに意識があるからすぐに来てくれないか」
橋本はやはりとおもった。電話は長兄からだった。
「すぐに行く。あの病院でいいんだろう」
母親の入院先を確認して橋本は電話を切った。
橋本は自家用車を飛ばして、山梨の実家へむかった。夕方であったが、中央高速にのるまでは比較的順調だった。だが、中央高速に入ったとたんに渋滞に巻き込まれた。ゴー、ストップをつづけていると、あっという間に三十分ほどがすぎた。前方をみると、みわたすかぎり車列がつながっている。ラジオをつけて渋滞情報に耳をかたむけた。集中工事の最終日であることがわかった。
――こんなことなら、一般道を行くのだったのに‥‥。
そんなことをおもったが、あとの祭りである。そうかといって、途中から抜け出すこともできない。母親の容態が心配になってくる。
「オレがつくまでがんばってくれよ」
橋本は祈るような気持ちでつぶやいた。
その橋本のはやる気持ちとは裏腹に渋滞はさらにはげしくなって、ほとんど車はうごかなくなった。ふと、会社のことがおもい起こされた。
――あと八百万のカネが工面ができれば、なんとかなる。ここで会社をつぶしちゃダメだ、多くの人たちに迷惑がかかるから‥‥。
橋本は心のなかで誓った。
いろいろな人たちの顔が脳裏をよぎる。妻子ばかりではない。取引先の人たちがつぎつぎにあらわれてくる。苦しいときにも面倒をみてくれている人たちばかりだ。
「あんた、T商事との取引はやめたほうがいいよ」
商売仲間の佐野さんの声がする。
橋本はT商事が資金繰りにこまっていることは知っていた。
「でも、あそこの社長さんにはいろいろ面倒を見てもらったことがあるから‥‥」
橋本がそういうと、
「あんたの気持ちはわかるけれど、いくら厚意でやったことでも、もし、あんたの会社がつぶれたら、もっと多くの人たちに迷惑が及ぶんだよ」
と、佐野さんは噛んで含めるようにいった。
いま、佐野さんの忠告が現実のものとなりつつある。
――ことによると、あの人は余裕があったけれど、オレの会社がつぶれるとおもって、カネを貸してくれなかったのかもしれない。
いったん、納得したはずなのに、また疑惑の念がわいてくる。
橋本はもういちど融資先におもいをめぐらせてみる。だが、もうあてにできる融資先は金融機関ばかりか、個人にも見あたらない。
――のこされた手は破産しかないか。
橋本は弱気になった。
車はあいかわらず渋滞に巻き込まれたままである。しばらくすると、少しずつではあるがうごきははじめる。
――あきらめるのはいつだってできるじゃないか。世話になった人たちのためにもここであきらめちゃダメだ。
そうおもうと気持ちがいくらか楽になった。
うごき出した車がまたとまった。
今朝方目にした新聞の見出しが頭に浮かんだ。記事を読んでみると、消費者金融では、生命保険を担保にして融資を受けている人たちがかなりいるとのことである。
橋本は生命保険を担保にしてカネを借りているわけではない。だが、万が一のことをおもって、かなりの額の生命保険に入っている。銀行や消費者金融への返済をすませても、まだ余裕がある。
――ことによると、すこしは取引先への返済にまわるかもしれない。
橋本はそんなおもいにかられる。
「おまえはこれからの人じゃないか」
とつぜん、なつかしい声が耳を突いた。まぎれもなく母親の声である。
「一回くらいの失敗で落ち込むんじゃないわよ。命は大事にするものだよ」
母親は念を押した。
「落ち込むつもりはないんだよ」橋本は心のなかで母と会話した、「オレは困っている仲間を助けてやりたかったんだから‥‥」
「その気持ちは大事だね。商売だからって、やたらに割り切るのも考えものだよ」
「そうなんだ。みんな薄情だからな」
「薄情だからって他人は恨まないことだよ」母はそこで言葉を切ってからつづけた、「おまえは自分にできることをやればいいんだよ。それでダメなら仕方がないじゃないか」
ふと、橋本が視線を前方のむけてみると、遠くに行くほど車の間隔がひらきはじめている。あっという間に車が流れはじめてくる。
「わたしはおまえが来るまでは死なないよ」
橋本は母親がそうかたりかけているような気持ちになった。
そのうちに車はスムーズに走りはじめている。
「もういちどやるだけのことはやってみよう」
橋本はそうつぶやいて、アクセルを踏み込んだ。車は山梨へむかって疾走しはじめている。
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