渋滞のあと

 橋本は憂鬱な顔つきをしている。
「あなたには、世話になったことがあるので、なんとかしたいのですけれど‥‥」
 二時間前にあったばかりの男の声が聞こえてくる。

 橋本が経営している食品販売会社の取引先のひとつに資金繰りが悪化している会社があった。本来ならば、取引を断るところであったが、橋本が商売をはじめたころからなにくれとなく世話をしてくれたこともあって、厚意で取引をしたのである。

だが、それが裏目に出て、相手の会社が倒産したばかりか、橋本の会社も商品の代金が回収できずに倒産の危機に直面しているのだ。橋本は取引のある銀行につなぎの融資を頼んだもののすべて断られた。

やむなく、高利を承知のうえで消費者金融にも手を出したが、それでも窮状を脱することができないでいる。残すところは、かつて窮状を救ってやったことのある、友人に頼みこむことだけであった。

 橋本は藁にもすがるおもいで、その友人のところへ出かけていったのであるが、ていよく断られて、東京の郊外にある事務所へ帰ってきたところなのである。
 橋本はじっと目をつむった。
「これでなんとかなります。この恩は生涯忘れません」
 男はぺこぺこと頭をさげたばかりか、目には涙を浮かべている。
――あのときの恩義はどうした。
 橋本は心のなかで憤りの声をあげた。だが、しばらくすると、
――ほんとうに苦しいのかもしれない。
 そんな感情が頭をもたげる。

 机のうえの電話が鳴った。
「ああ、オレだけれど‥‥」
 聞きなれた声に橋本はどきりとした。
「あの、お袋が危篤なんだよ。まだかすかに意識があるからすぐに来てくれないか」
 橋本はやはりとおもった。電話は長兄からだった。
「すぐに行く。あの病院でいいんだろう」
 母親の入院先を確認して橋本は電話を切った。

 橋本は自家用車を飛ばして、山梨の実家へむかった。夕方であったが、中央高速にのるまでは比較的順調だった。だが、中央高速に入ったとたんに渋滞に巻き込まれた。ゴー、ストップをつづけていると、あっという間に三十分ほどがすぎた。前方をみると、みわたすかぎり車列がつながっている。ラジオをつけて渋滞情報に耳をかたむけた。集中工事の最終日であることがわかった。

――こんなことなら、一般道を行くのだったのに‥‥。
 そんなことをおもったが、あとの祭りである。そうかといって、途中から抜け出すこともできない。母親の容態が心配になってくる。
「オレがつくまでがんばってくれよ」
 橋本は祈るような気持ちでつぶやいた。

 その橋本のはやる気持ちとは裏腹に渋滞はさらにはげしくなって、ほとんど車はうごかなくなった。ふと、会社のことがおもい起こされた。
――あと八百万のカネが工面ができれば、なんとかなる。ここで会社をつぶしちゃダメだ、多くの人たちに迷惑がかかるから‥‥。
 橋本は心のなかで誓った。
 いろいろな人たちの顔が脳裏をよぎる。妻子ばかりではない。取引先の人たちがつぎつぎにあらわれてくる。苦しいときにも面倒をみてくれている人たちばかりだ。

「あんた、T商事との取引はやめたほうがいいよ」
 商売仲間の佐野さんの声がする。
 橋本はT商事が資金繰りにこまっていることは知っていた。
「でも、あそこの社長さんにはいろいろ面倒を見てもらったことがあるから‥‥」
 橋本がそういうと、
「あんたの気持ちはわかるけれど、いくら厚意でやったことでも、もし、あんたの会社がつぶれたら、もっと多くの人たちに迷惑が及ぶんだよ」
 と、佐野さんは噛んで含めるようにいった。
 いま、佐野さんの忠告が現実のものとなりつつある。

――ことによると、あの人は余裕があったけれど、オレの会社がつぶれるとおもって、カネを貸してくれなかったのかもしれない。
 いったん、納得したはずなのに、また疑惑の念がわいてくる。

 橋本はもういちど融資先におもいをめぐらせてみる。だが、もうあてにできる融資先は金融機関ばかりか、個人にも見あたらない。
――のこされた手は破産しかないか。
 橋本は弱気になった。
 車はあいかわらず渋滞に巻き込まれたままである。しばらくすると、少しずつではあるがうごきははじめる。
――あきらめるのはいつだってできるじゃないか。世話になった人たちのためにもここであきらめちゃダメだ。
 そうおもうと気持ちがいくらか楽になった。

 うごき出した車がまたとまった。
 今朝方目にした新聞の見出しが頭に浮かんだ。記事を読んでみると、消費者金融では、生命保険を担保にして融資を受けている人たちがかなりいるとのことである。
橋本は生命保険を担保にしてカネを借りているわけではない。だが、万が一のことをおもって、かなりの額の生命保険に入っている。銀行や消費者金融への返済をすませても、まだ余裕がある。

――ことによると、すこしは取引先への返済にまわるかもしれない。
 橋本はそんなおもいにかられる。
「おまえはこれからの人じゃないか」
 とつぜん、なつかしい声が耳を突いた。まぎれもなく母親の声である。
「一回くらいの失敗で落ち込むんじゃないわよ。命は大事にするものだよ」
 母親は念を押した。

「落ち込むつもりはないんだよ」橋本は心のなかで母と会話した、「オレは困っている仲間を助けてやりたかったんだから‥‥」
「その気持ちは大事だね。商売だからって、やたらに割り切るのも考えものだよ」
「そうなんだ。みんな薄情だからな」
「薄情だからって他人は恨まないことだよ」母はそこで言葉を切ってからつづけた、「おまえは自分にできることをやればいいんだよ。それでダメなら仕方がないじゃないか」

 ふと、橋本が視線を前方のむけてみると、遠くに行くほど車の間隔がひらきはじめている。あっという間に車が流れはじめてくる。
「わたしはおまえが来るまでは死なないよ」
 橋本は母親がそうかたりかけているような気持ちになった。
 そのうちに車はスムーズに走りはじめている。
「もういちどやるだけのことはやってみよう」
 橋本はそうつぶやいて、アクセルを踏み込んだ。車は山梨へむかって疾走しはじめている。

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自殺

 わたしはインターネットの自殺サイトをひらいた。
――いっしょに死んでくれる人をさがしています。
すぐに反応があった。
――相談にのってもいいですよ。
 わたしはキーボードを打った。
――ほんとうにボクといっしょに死んでくれるんですね。
――そんなに急がなくともいいじゃないの。性別と年齢くらい教えてくれないかい。
――そんなことを聞いて、下手な説教でもしようというんじゃないの。
――よくわかるね、わたしは牧師だから説教するのが仕事なんだよ。
――やっぱりね、牧師さんか。幸せだね、神を信じることができて‥‥。
――キミは信じることができないの。
――信じられれば自殺なんかするわけないよ。
――でも、いくらキミが自殺しようともおもってもできないんだよ。
――どうしてですか。
――キリストが十字架に架かってくれたから‥‥。
――母親にもおなじことをいわれましたよ。一家がクリスチャンだからね。
――キミだけがちがうんだね。
 わたしは単刀直入に聞いてみた。

――そう。でも、ボクだって信じようとしたんですよ。でも、信じられないんです。だいたい、キリストが十字架に架けられようとしているのに、なぜ、神はキリストを助けなかったんでしょうね、神は全能でしょう。
――神はわざと助けなかったんだよ。
――なぜですか。
――キリストが十字架にかけられなければ、救い主にもなれなかったじゃないの。
――なるほど、だから、いくらキリストが神に向かって、なぜわたしを捨てるのですか、と叫んでも神は救いの手をさしのべなかったんだ。
――そうなんだよ。キリストはキミのためにも命をおとされたのだから、キミは勝手に自殺をすることはできないんだよ。
――つじつまはあっているけれど、ちっとも説得力がないんですよ。それよりも、ニーチェがいった「神は死んだ」のひとことの方がどのくらいボクの心をゆさぶったかわかりませんよ。
 相手のことばにわたしはどきりとした。

――そうか、キミもニーチェの信奉者なんだ。
――べつに信奉者ではないけれど、どんな聖職者のことばよりも、ニーチェのひとことの方が心にひびくんですよ。
――その考え方はわからなくはないね。キリストが十字架にかけられて、いったん死んでから、復活をとげて、永遠の命をさずかる。これはキリスト教信仰の核心部分だけれど、ここが昔のように絶対的な力をもたなくなった。ニーチェはそこをとらえて、「神は死んだ」と、いったようだけれど、あたらなくもないね。
――そればかりじゃないでしょう。キリストは神なの、それとも人間なの。
――それも問題だね。むかしから神と人間のあいだで、ゆれうごいてきたんだよ。いまでは神でもあり、人間でもあるということにはなっているけれど‥‥。
――そこも信じられないんですよ。
――じつは、わたしも信じられないんだよ。
 わたしは本心をうちあけた。

――牧師さんがそんなことをいっていいんですか。
――牧師もいろいろだからね。
――それでは、どうすればいいの。
――キリストは人間に返ればいいとおもっているんだよ。
――それじゃキリスト教じゃなくなるね。
――そんなことはないさ。もともと、イエスは「永遠の命にめざめなさい」といって、ガリラヤ湖のあたりを説教して歩いていたんだよ、きっと‥‥。
――人間イエスが永遠の生命を説いていたというわけか。
――そう、イエスは命の連続性を説いていたんだ。
――そういえば、命ってどこから与えられているかわからないものね。
――身近な例でいえば、われわれは意識があってこそ、こうやって生きていられるのだけれど、そんな大事なものが、どこのだれから与えられているかとなると、さっぱりわからない。
――それでいて、永遠に絶えることなく、与えるべきところにはちゃんと与えてくれている。だから、イエスは余計なことにおもいわずらうなと、いったのかもしれないですね。
――そうだね。見方をかえると、イエスのいっていることはいまの時代にも通じるような普遍性をもっているんだよ。
――そうかもしれませんね。
 相手の男は同意した。

――それだけわかれば、自殺しなくともよさそうじゃないか。
――そういわれてもすぐにはね。
――キミは誰の意志で生まれてきたんだとおもうかね。
――うん、むずかしい質問ですね
――自分の意志で生まれてきたんだよ。
――どうして、そんなことがいえるんですか。
――産卵のために川をのぼっていくサケを見たことがあるだろう。
――ありますよ、テレビだけれど‥‥。
――あれはサケだけの意志じゃないんだよ。サケの遺伝子があのようにさせているんだ。わたしにはそのようにおもわれて仕方がない。
――その遺伝子をあやつって誰なんでしょうね。
――それが神かもしれないね。
――それでは、その神の意志に逆らって、自殺することはできないわけか。
――それはキミが考えることだよ。
――わかったようでわからないけれど、まーいいか。
――そうだよ、そんなにいそいで死ぬこともないよ。


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サラリーマンの椅子

 今日は定年退職の日である。辻一郎は社長から感謝状をうけとったあと、かつての職場に顔を出した。
「たいへんお世話になりました」とか、「いつまでもお元気で‥‥」とか、「たまには遊びに来てください」とか、常套句の返礼をうけたあと、女子社員から手渡された花束を手にして、四十年以上も勤めた会社をあとにした。

 辻は通いなれた道を最寄りの駅に向かった。駅に着いて、電車に乗ろうとすると、定期券を返却したのに気づいた。
「これからはただでは電車にのれないのか」
辻はつぶやきながら、切符を買って電車にのった。

まだラッシュアワーの時間ではなかったが、それでも車内はほどほどの込みようである。辻は車内のなかほどまで足をすすめた。そして、手にもっている感謝状と花束を網棚のうえにあげて、車窓から移り行く街の景観をながめていた。

 電車がつぎの駅に着くと、斜め前の席が空いた。辻が坐ろうとすると、一瞬はやく同年輩の男が腰をおろした。だが、男は席の端にちょこんと腰をおろしただけである。前の人のぬくもりがのこっていって、席いっぱいに腰をおろすことがためらわれるようである。だが、二駅も先に行くと、いっぱいに腰をおろしているばかりか、背をもたれて胸をはっている。

 その光景をみているうちに、辻は長かった自らのサラリーマン人生におもいを馳せている。
――三年に一度の人事異動として、四十年か。
辻は頭のなかでおもいをめぐらせた。
定年になるまで、十三、四回の人事異動を経験していることがわかった。

 係長に昇進したときのことがおもい起こされる。
 はじめて両肘椅子に坐ることができた。両肘をのせながらちょっぴり優越感を味わったが、そうかといって深々と腰をおろした記憶はない。
「これを明日の朝までまとめておいてくれ」
 威厳のある声で命令する課長の声が聞こえてくる。
「もう限界です。係長にお願いするしかありません」
 悲壮な部下の顔が浮かんでくる。
 
――つらかったけれど、あのころがいちばんやりがいがあったのかもしれないな。
 辻はそんな感慨におそわれる。
「会社は係長でもっているんだ。それだけの気概をもって働いてもらわないとこまるぞ」
 部長から激励とも叱責ともうけとれる訓示を聞いて、あらたな気概に燃えたことがおもい出される。
「あんた、たまには子どもと遊んでやってください」
 妻の感情的な声がする。
 辻は仕事人間を絵に描いたような人間になっていた。

 そのうちに管理者に昇進して、営業の最前線の課長として送り込まれた。
「こんどの課長はたいしたことはないみたいよ」
 女性課員の声がする。
 前任者はやり手として知られていた。
「キミ、席が浮いているよ」
 揶揄した同僚課長の顔が浮かんでくる。
「板についてきたじゃないか」
 一年ほどたったときの同じ課長のことばである。
 辻の努力もあって課員の信頼もかちえた。
 そのころには落ち着いて椅子に腰をおろすことができるようになった。

「飛ぶ鳥をおとす勢いじゃないか」
 そんな声を仄聞したこともある。
前職の実績がかわれて、さらに競争の激しいセクションの責任者として送り込まれた。上司は若いころから気心が知れているばかりか、いまでは全幅の信頼をおいてくれている。「いや、だめだ、これでいけ」
椅子にどっしりと腰をおろして、指示を出しても部下から反発は起きなかった。だが、それも時間の問題にすぎなかった。

 上司が変わったのが潮時だった。役員候補と目されていた上司にその目がなくなって、子会社に異動になった。かわって、上司として着任したのは、若いころから相性の悪い人物である。
「独断専行らしいな。部下のいうこともきかなくちゃだめだよ」
 着任早々きついお叱りをうけた。
 案の定、つぎの異動では、場違いのセクションに飛ばされた。

 また、椅子の端に腰をおろして、仕事をする日々がつづいた。
 総務の仕事ははじめてである。
「キミの手腕一つでわたしのメンツがたつんだ」
 社長の声が聞こえる。
 株主総会の準備で総会屋対策に追われていたときのことである。
「これだけは絶対に引き下がれません」
 傲慢な若い男の声がする。
 労働組合との折衝の席のことである。
「なんとか善処したいとおもいますので、もうすこし、時間の猶予を‥‥」
 席の端に腰をおろして、若い労組役員をなだめすかしたこともある。

 そんな努力がむくわれて二年前には人事部長に昇格した。人事部長は役員候補の一人である。
――実るほど頭を垂れる稲穂かな
 そんな教訓が頭をかすめた。好感度を意識して、そのまねごとをしたこともある。おのずと、席の端に腰をおろすことが多くなった。
――人事評価にあたってのマニュアルを作成したので配布する。客観的な評価を励行されたい。
 そんな書面を配布したこともある。それでいて、はたして自分はどのような評価をしてきたであろうか。
「彼もこれが最後じゃないか、落とすわけにはゆくまい」
評価の低かったかつての部下を一ランク上の地位へ引き上げたときの情景がよみがえってくる。

「絶対にまちがいがない」
専務の声が聞こえてくる。
内々に役員への昇進はまちがいがないと告げられたのだ。
「力が及ばなくて申し訳ない」
 一週間あとには、おなじ専務の口から正反対のことをいわれた
 それから半年は窓際族として暮らした。子会社への出向もことわった。

 はっと気がつくと、いまだ車内の人であることがわかる。それも座席の端に腰をおろしたままである。深呼吸をひとつすると、辻はおもい腰をあげて深々と坐りなおして、目をつぶった。

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寝顔

 綾子が帰宅したのは、十時をまわっていた。
「ゆかりちゃんが楽しみにしていましたよ」
 母が綾子の顔をみるなりいった。
 綾子は一人娘のゆかりをデズニーランドへ連れて行くと約束している。
「今朝もいってたのよ、ママ、あしたは約束を破らないでねって」
「このまえの土曜のことが忘れられなのね、きっと‥‥」
「悪いことをしたわ」
 綾子はぽつりといった。

 綾子は二週間前の土曜日にゆかりをデズニーランドへ連れてゆくはずだった。それが、商品の搬入めぐり取引先とのあいだで問題が発生してしまった。正当な商品かどうか、その日のうちに確認する必要がある。綾子はきゅうきょ出社せざるをえなくなったのだ。
「仕方がないわよ、仕事をしていれば‥‥。まして、あなたは経営者ですもの」
 母が気づかってくれた。
 綾子は子ども用品をあつかう通信販売会社をおこして五年になる。経営はいまのところきわめて順調である。

 着替えを済ませると、綾子は六畳の和室に入った。そこが親子ふたりの寝室になっている。布団がふたつならべて敷いてある。母が敷いてくれたものだ。綾子はゆかりの枕元へ坐った。ゆかりは軽い寝息をたてて眠っている。綾子はその寝顔をじっと見入った。なんともいえない安堵感がひろがっていく。生きているよろこびが押し寄せてくる。

「ママ、いっしょにスペースマウンテンにのろうよ」
 デズニーランドで、はしゃいでいるゆかりの声がする。その声はいつしか自分の声になっている。幼いころ、母といっしょに豊島園に行ったときの記憶がよみがえってくる。
 食品会社で販売を担当していた父は仕事一途な人間だった。綾子は父に遊んでもらった記憶はない。いつも行動をともにしたのは母である。
 綾子は活字人間である。それには母の影響がある
「ねえ、お母さん、図書館に連れて行って」
綾子は日曜日になると、図書館へ連れて行くように母にせがんだ。母はいやがることはなかった。むしろ、自分からすすんで図書館にいくと、綾子の好む児童書や絵本を借りてくれた。綾子はしぜんと本好きになっていったのだ。

 中学生になると、バレーボールに熱をあげて、遅くまで練習にはげんだ。
「お腹がすいたでしょう、おにぎりとから揚げをもってきたわよ」
 仕事でつかれているにもかかわらず、母はその都度むかえにきてくれたばかりか、綾子の好きなものを持参した。帰りの車の中で飢えた子どものようにそれを食べたときの記憶がよみがえってくる。

「二年ばかり、オーストラリアに留学したいのだけれど、いいかしら」
綾子は大学を卒業する年に母に打診した。
母はしばらく黙していたが、
「お父さんがいてくれたら、問題がないのだけれど‥‥」
 と、ひとりごとのようにいった。
 綾子たちは、その七ヶ月前に父をなくしていた。
「やっぱり、ひとりじゃ寂しいの、お母さん」
 綾子が心配そうにいうと、
「わたしは大丈夫よ、仕事もあるし‥‥。それよりもあなたにもしものことがあったら」
 母は自分のことよりも、綾子のことを心配していたのだ。

「わたし別れることにしたの」
 離婚することを告げたときもなんら事前に告げることはなかった。それなのに、愚痴らしきことも口にしなかった。
「だって、子どもが生まれたばかりじゃないの」
 と、いってしばらく黙していたが、
「あなたが決心したことですから、それなりの理由があるのでしょう」
 と、いったきりであった。

「商売をはじめたいのだけれど‥‥」
 このときもとつぜん切り出した。
 綾子は子どもが生まれるまで高級衣料品の通信販売の会社につとめていた。勤務成績が優秀なばかりでなく、仕事のノウハウをしっかりと身につけていた。
「自分の能力を試してみたいのよ」
 綾子がそういうと、
「いいわよ、やりなさい。あなたは商売にむいているわよ」
 と、太鼓判を押してくれた。そればかりか、
「それで資金はどうするの」
と、開業資金の心配までしてくれた。
「融資してくれる人がいそうなの」
「それもいいけれど、まずウチのおカネをつかいなさいよ」
 母は自分から資金の提供を申し出てくれた。

「一つだけ心配があるのだけれど‥‥」
 綾子が母の顔色をうかがいながら切り出した。
綾子が心配していたのは、幼稚園にあがったばかりのゆかりのことである。
「ゆかりちゃんのことでしょう、いいわよ、わたしが面倒をみるから」
 母はこともなげにいった。
「だって、お母さんは仕事があるじゃないの」
 母は私立大学の大学病院で薬剤師をしている。
「いいのよ、辞めるから‥‥」
「だって、まだ定年までは‥‥」
「三年あるけれど、いいわよ。あなたに賭けたわよ」
 母は明るい声でいった。

 綾子は娘のゆかりをみつめなおした。くったくのない寝顔である。それまでの人間関係がおもいおこされる。信頼できる人間もいれば、できない人間もいる。仕事の関係では、信用が生命である。オーナーの職にある綾子は身にしみてわかっている。商品を売るのも、資金を融通するのも、信用が前提となっている。だが、それはビジネスの世界のこととして綾子は割り切ろうとしている。プライベートでは、何人かの友人とのあいだであつい信頼関係をもっている。困ったときには力になってくれるであろう。だが、それにもおのずから限界がありそうである。

――その点、母とわたしはちがうわ。
 綾子は本心からそうおもえてくる。それは強い絆を超えて、神の愛で結ばれているような気がしてくる。
――母の愛は無償の愛なのよ。
 そのおもいはふかく綾子の心のなかにおちていった。

「ママ、わたし先に休みますからね、いいお風呂よ」
 母の声がした。
「お休みなさい、わたしもすぐに入りますから‥‥」
 そういってから、綾子はもういちど、ゆかりの寝顔を見返してから、
「わたしもこの娘のためならば、母のような愛情をささげられるわ、きっと‥‥」
と、口のなかでつぶやきながら、立ちあがった。

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隠蔽

 教授の青山和夫は自他ともに許す心臓外科の権威者のひとりである。外国経験がながいうえに、難しい心臓手術を数多く手がけていることから、重症の心臓患者たちが青山の執刀にあずかろうとして、毎日のようにこの大学病院を訪れる。
その日も青山は教授室の椅子に腰をおろして、手術の日程に目をとおしている。難易度の軽い手術は助教授や助手たちに任せているが、それでも自らが手がけなければならない手術もぎっしりつまっている。

教授室をノックする音がする。
「どうぞ」、と声をかけると、「失礼します」
 といって、助教授の沢木が深刻な顔つきをしてあらわれた。
彼は青山のもとに歩み寄ると、
「先生、ちょっと内密にお話したいことがあるんですけれど‥‥」
 と、緊張しながらいった。
 青山はただならぬものを感じたが、平静をよそおって、
「どうしたのかね」
 と、気軽に応じた。
「じつは加藤クンがとんでもないミスをしまして‥‥」
 沢木は青山の顔色をうかがいながらいった。

「きょうはバイパス手術があったな」
「加藤クンたちがその手術をおこなったのです」
「それで患者の容態は?」
「亡くなりました」
「ええ、それはただごとではないな」
「おしゃるとおりです」
「キミは手術に立ち合わなかったのか」
「はい、もうなんかいもいっしょにおなじ手術をやっていますし、本人も大丈夫だといってましたものですから」
「彼にはまだ任せられないはずじゃないか」
「申し訳ございません」
青山は沢木を叱責したが、すぐに、
「それでどんなミスなんだい」
 と、ミスの内容をただした。
「ふつうのバイパス手術だったものですから、人工の心肺装置を使わずに手術をしたのですが、手術中に患者の心臓が停止状態におちいったのです」
「すぐに心肺装置をとりつけていれば問題ないじゃないか」
「おっしゃるとおりです。それが不慣れでうまくいかなかったらしいんです」
「キミがついていればこんなことはなかったのに‥‥」
 沢木は無言のまま頭をさげた。

「問題はこれからどうするかだな」
 青山が話題をかえた。
「その点ですけれど」
 といって、沢木は一瞬ことばを濁したが、
「じつは加藤クンがおおやけにして、家族に謝罪したいといってきかないんです」
 と,渋面をつくりながらいった。
「そうか、彼らしいな」
 青山は腕組みをして考え込んだ。
「だいぶ説得したんです。患者もかなり高齢だし、事前に危険がともなうことも家族の方にも説明してあるじゃないか、と‥‥」
「‥‥」
「それよりも、この件がおおやけになれば、おまえが責任をとるだけじゃすまないんだぞ。大学の名誉にもかかわるし、まして、先生の前途にも影響がおよぶかもしれないじゃないか、といって‥‥」
 沢木は青山の顔色をみながら早口でまくしたてた。
「そこまでいってもダメなのか」
 青山は顔をくもらせながらいった。
「先生から、説得してもらえば彼も応じるとおもいます」
「そうか。ちょっと考えさせてくれないか」
青山は沢木につげた。

「目をつぶってくれ。先生の名誉のためにも‥‥」
 二十数年前に助教授からいわれたことばが聞こえてくる。
 大学で助手として働いていたときのことである。青山は内視鏡で胃の検査をしていたときに、検査の器具の誤操作で胃に穴をあけてしまったばかりか、出血多量で患者を死に至らしめてしまったことがあったのだ。
 患者は四十代の働きざかりであった。青山の脳裏には患者の妻や子どもたちの姿が浮かんだ。
「黙っているわけにはいきません。奥さんや子どもさんたちに謝らしてください」
 青山は助教授に哀願した。
「キミの気持ちは痛いほどわかる。でも、この一件がおおやけになったら、先生の医学部長への昇進はまず絶望だろうな」
 助教授の口から青山が予想もしていなかったことが知らされた。
「先生はキミの能力を高く評価しているんだよ」
 助教授はダメ押しを押した。青山は沈黙せざるを得なかった。
「キミ、アメリカにいって修行をつんでこいよ」
 その翌日には、アメリカの有名大学に派遣することが教授の口からじかに告げられた。青山がいまの地位にいられるのも、そのときの体験があったからである。

「わたしのあとはキミを推薦するよ」
 学長の声がする。
 つい一ヶ月ほどまえに告げられたことばである。学長の任期はのこすところあと七ヶ月にせまっている。
「加藤クンにもおなじ道を歩ませることにしようか」
 青山はぽつりとつぶやいた。

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おかみ

 朝から降りはじめた雪は時間を追って激しさをましている。時間は午後の一時をまわったところである。紀子の部屋から雪景色がみえる。目と鼻の先は日本海である。ぼたん雪が降ってはそのまま海のなかへ消えていく。はげしく降っていてもつもることはない。紀子はその光景に目を凝らしている。

「雪をみているの」
 母の志津が顔を見せた。
「子どものころの情景が浮かんでくるのよ」
「‥‥」
「たしか、お母さんがここで旅館をはじめた日もこんなぼたん雪がふっていたわね」
紀子は雪景色をみつめなおした。
「そうだったわ、こんな大雪のなかをお客さんが来てくれるかどうか、心配だったわよ」
 志津はなつかしそうな口ぶりでいった。
「でも、来てくれたのでしょう」
「七室しかなかった部屋が満室でしたよ」
「でも、お母さんって度胸がよかったのよね」
「だって、主人に死なれたら、あそこの家にはいたくなかったもの」
「あれから四十年以上もたっているのね」
紀子が感慨深げにいった。

 志津が北陸の温泉地で旅館を開業したのは紀子が小学校の二年のときである。夫の急逝で母と娘だけの生活がはじまったのである。だが、紀子が志津といっしょに暮らしたのは高校を出るまでで、そのあと、三十年以上も親子は別々の生活をしている。

「ながいあいだ親不孝したものね、わたしも‥‥」
「そんなことはないわよ、あなたはあなたなりの生活があったのだから」
「そりゃそうだけれど、それなりにわたしも心配していたのよ。なにしろ、女手ひとつで旅館を開業したばかりか、一流のホテルにまでしたのだから、そりゃ尊敬もしていたけれど、心配でもならなかったの」
「好きだからやってこられたのかもしれないわね。でも、わたしはあなただけには迷惑をかけることはしないと決めていたのよ」

「そのとおりにやってきたじゃないの。そんなことよりも、わたしが常々感謝しているのは、わたしの望むとおりの人生を送らせてくれたことなのよ」
 紀子は志津をみつめながらいった。
「あなたはだれの娘なの。わたしが説教したからといって、聞く人じゃないでしょう」
「血はあらそえないのね」
「いいのよ、それで‥‥。親子だって別の人間なのだから」
「ねえ、お母さん、わたしがこのホテルを継がなかったらどうするつもりだったの」
 紀子が話題をかえた。

紀子が別々の生活にけじめをつけて、母のあとをついで、このホテルのおかみにおさまったのはつい一月前のことなのだ。
「そんなこと考えなかったわよ。いざとなれば、売ればいいことだからね」
「わたしなんか、あてにしてなかったのね」
「そりゃ継いでくれればありがたいけれど、あなたはホテルのおかみなんかやる人じゃ
なくなっていたからね」
「そんなふうにおもっていたの」
「そりゃそうですよ、旦那さんも旦那さんですし‥‥」
 母のことばには実感がこもっている。

「運命を決めたのはわたしが金沢の高校に入ったことね」
 紀子がお茶を入れながらいった。
「優秀だったから進学校に入れてあげたかったのよ」
「感謝しているわよ」
「そうでしょう、最愛の人に巡り会えたのだから」
「芸大にすすむといったときも反対しなかったものね」
「これでわたしのあとは継がないとおもったわよ」
「さみしくなかった」
「そりゃ、さみしかったわよ。でも、わたしはそれよりも心配なことがあったの」
「わかるわよ、彼がまだどんな人間かわからないものね」
「絵画サークルの仲間だけの間柄ではなさそうだったからね」
「示し合わせて芸大を受験したら、運よくふたりとも合格してしまうのですもの」
「それだけじゃなかったでしょう」
志津が茶目っ気を出した。

「はい、パリにもいっしょにいかせていただきました」
 紀子が目をかがやかせた。
「パリは何年いたの」
「三年くらいだったかしら」
「あのときだけは小言をいったわね」
「結婚してから行きなさいって」
「あんたはきかなかったじゃないの。婚約しているのだからといって‥‥」
「そのうえ、おカネを出させてね。彼は学校から出たけれど、わたしは出なかったのよ」
「結婚してからアメリカの生活もながかったわね」
「七年くらいかしらね。主人がむこうの大学でおしえはじめたから‥‥」
「おかげで、わたしも行きました」
「そうだったわよね」
「孫が生まれたというじゃない。清水の舞台から飛び降りたつもりで行きましたよ、きら
いな飛行機に十何時間も乗って」
紀子がお茶をいれなおした。

「おかげで楽しい人生を送らせていただきました」
「よかったわね、初恋の人とずっといっしょで‥‥」
「それもふたりでずっと好きな絵を描いて生活してこられたのですから」
「きっと、神さまがやきもちをやいたのですよ」
「そうかもしれないわ」
「それにしても、靖男さんがあんなにあっけなく亡くなるなんて信じられないわ」
「‥‥」
「悲しかったわよ、わたしも経験者だから‥‥」
「もう、考えないことにしたの。わたしたちには楽しい思い出がいっぱいあるからそれでいいのよ」
「あの、古い方のホテルを建て直そうとおもうのだけれど」
 紀子が意外なことを口走った。

「もう十五年くらいになるかしらね」
 志津が頭と指でかぞえた。
「建てなおしてもいいころじゃあない」
「リホームをしても大丈夫だとおもうけれどね」
「おカネのことなら心配いらないわよ」
「‥‥」
「主人は亡くなるまえにいっていたの。ウチの財産はすべてキミに任せるって‥‥」
「‥‥」
「それから、手元にある絵もすべてキミの自由に処分してもかまわないって‥‥」
「そりゃ、世界的に名の知れた画家の作品ですもの‥‥。このくらいのホテルを建てる
くらいのおカネにはなるでしょうけれどね」
そういいながら、志津はかすかに首を横にふった。
「そればかりじゃないの」
 紀子はそこで黙してから、
「主人はそのあとで、オレたちには楽しい思い出があるじゃないか、といいながら、わたしの手をにぎりしめたのよ」
 と、目をうるませながらいった。
 志津も目頭をおさえた。

「わたしはまだ五十をすぎたばかりよ。あと、二十年はおかみをやっていけるとおもう
のよ」
 紀子が語気をつよめていった。
「わたしはなにも反対しているわけじゃないの」
 沈黙があった。
「ねえ、建て替えるくらいのおカネはありそうだから、靖男さんの絵は売らないで」
 志津が沈黙をやぶった。
「それでどうするの」
「この敷地のなかに靖男さんの美術館をつくろうよ」
「そんなこと考えてもみなかったわよ」
「お客さんにもみてもらえるし、わたしのためにもなるから」
「どういうこと」
「ボケ防止にわたしが館長になるの」
「それじゃ、ホテルの経営から手を引くというのね」
「あなたひとりで十分だわよ」
 志津が紀子にお茶を入れた。

「国際郵便がとどきましたのでお届けにまいりました」
 フロントの係りが封筒を紀子に手わたした。
「どこからですか、国際郵便なんて」
 志津がふしんそうに聞いた。
 紀子が差出人を確認してから、
「めずらしいわ、ゆかりからですよ」
 といいながら、封を切った。
「きちんと生活しているのかしらね、ゆかりちゃんは‥‥」
 志津がひとりしかいない孫を気づかった。
「大丈夫ですよ、あの娘は外国生活にはなれているから」
「そうね、あなたたちが連れて歩いていたものね」
「あの子の作品がコンテストに入選したらしいわよ」
「どんなコンテストなのかしら」
「新人デザイナーの登竜門といわれているの、パリでは‥‥」
「権威があるじゃない、どんな服装のデザインをしたのかしら」
「写真が同封してあるわよ」
「ほんとう、ちょっとみせて」
 志津がすばやくのぞき込んだ。

「これでゆかりちゃんもあなたのあとは無理ね」
 志津が冗談めかしていった。
「お母さんの孫ですもの仕方がないわよ」
「そうね、それにしても、あなたはよくわたしのあとを継ぐ気になったわね」
「‥‥」
「絵を描いているだけでも生活ができたじゃない」
「そりゃできたけれど、わたしは主人みたいな才能はないのよ」
紀子はそれだけいって、雪景色に目をやった。あいかわらず、雪はとめどなく降りしき
っている。
「わたしのいままでの人生って、こんな雪だったかもしれないの」
 志津も雪景色に目をやった。
「降っても、降ってもすぐに海のなかに消えていってしまうじゃないの」
「夢か幻のようなものだってこと」
「そうなの、雪もすこしはつもらないとつかみようがないものね」
「それで、決心したの」
「そうね、お母さんのようにはいかないけれど‥‥」
                                   (了)

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天使

 わたしは子どもをつくらないつもりであった。好きでえらんだ洋服のデザイナーのしごとを天職のようにおもっていたからだ。子どもを欲しがる夫を説き伏せて、しごと一筋の生活を送ってきた。失敗にもめげずに、あたらしいデザインにも挑戦しつづけた。それが認められて予想もしていなかった賞を手にしたこともある。
 それにつれて勤め先の会社からも重用される存在になっていった。
 そのわたしの気持ちがかわったのは、
「わたしも子どもが欲しかったわ」
 という大恩のある先輩のことばを聞いたからである。
 彼女はわたしを育てあげてくれたデザイナーであるが、そればかりでなく、わたしにとって彼女は生きていくうえの手本のような存在でもあった。だが、彼女はまだ五十をすぎたばかりだというのに、難病にとりつかれて入院生活を余儀なくされていた。その彼女が子どものことを口にしたのはわたしが同僚といっしょに見舞いにいったときのことである。同僚がつれていった五歳になる娘の姿をみながら、わたしも子どもが欲しかったと、涙声で告白したのだ。
 彼女がいったひとことはわたしの心をゆさぶった。
 それからも彼女の病状はおもわしくなく、ついには帰らぬひととなってしまった。
 葬儀には多くの人たちが参列した。だが、独身の彼女には夫の姿がなければ、子どもの姿もない。身内の人たちの姿もまばらで、彼女をとりまく商売の関係の人たちの姿ばかりが目だった。
「お葬式はさみしかったわ」
 わたしは夫にいった。
「そうだろう。いくら多くの人たちが参列してくれてもしょせんは他人だからな」
「子どもを欲しがった気持ちがわかるわ」
「そりゃ子どもにまさる宝はないさ」
「わたしたちももう若くはないわね」
「いくら子どもが欲くてもオレひとりじゃどうにもならないよ」
 夫は寂しげな口ぶりでいった。
 わたしが出産を決意したのはそれからまもなくのことである。
 出産を機会にわたしは執念をもやしつづけてきたデザインのしごとからいさぎよく手をひいた。手がかからなくなるまでは育児に専念することにしたのだ。あとのことはその時点で考えればよいと割り切った。その選択に悔いはなかった。子どもとたわむれながら送る生活に満足していた。
「ねえ、この子どもちょっとへんじゃない」
 子どもをあやしているわたしの姿をみていた姉がふともらした。姉は三人の子どもの母親でもある。わたしはどきりとした。予感が的中した。音にたいする子どもの反応がにぶいような気がしていたのだ。
「病院にいって診てもらったほうがいいわよ」
 姉の忠告もあって、わたしはおそるおそるちかくの耳鼻咽喉科の医院をおとずれた。
「くわしく検査してみないとはっきりしたことはいえませんけれど、ほとんど聞きとれていないようですね」
 医師はこともなげにいった。
 わたしはいたたまれない気持ちになった。ありのままを夫に伝えた。
 わたしはわが子が自分の手からはなれて遠くのほうへいってしまったようなおもいにかられはじめた。かたりかけることばも少なくなっていった。だんだん子どもの面倒をみるのが義務的になっていった。
 将来に胸をふくらませていたときのことがおもい起こされる。
「わが社ではあなたの能力をたかく評価しています。ぜひ、ウチで働いてみませんか」
 ひとりの男がいったことばが聞こえてくる。ほかの会社から引き抜きの打診があったのだ。わたしが勤めていた会社よりもひとまわりも、ふたまわりも大きいうえに、フランスやイタリアの服装メーカーとも提携関係をもっている。
「わたしどもはあなたの将来性をかっているのです。ミラノにいってデザインの腕をみがいてもらうことも考えています」
 わたしにとっては、願ってもないはなしであった。わたしの心はふくらんだ。夫の了解もとりつけた。二三年であれば、ミラノへいってもいいといってくれた。
 その絶好のチャンスを投げすててえらんだ選択であったが、それがまちがいであったとのおもいにかられる。だからといって、わたしにはせっかく授かったわが子を見捨てるわけにはいかない。
「親として、やるだけのことはやっていこう」
 わたしはうつろな気持ちでつぶやいた。
 そのわたしの気持ちがかわったのだ。きっかけをつくったのは夫であった。
「原因は遺伝にあるみたいよ」
 わたしは夕食をとっているときに、医師から聞かされたことを夫につげた。
「ええ」といって、夫は箸をうごかす手をとめた。
「耳の障害は遺伝子が関係していることが多いらしいの」
 夫は呆然としていたが、やがて、
「オレのほうではないだろう」
 と、ぽつりといった。
 そのひとことはわたしの心をひどく傷つけた。
 わたしは夫を信頼していた。責任を回避することがなかったからだ。
「そんなこと調べてみなければわからないじゃないの」
 わたしは感情的な声をあげた。
「それはそうだけれど、まさか……」
 夫はそれだけいって黙した。
 夫にたいする信頼感が失われていった。
――この子を守ってあげられるのはわたししかいないのだわ。
 わたしはかたく誓った。
 それを境として、わたしの子どもに接する態度がちがっていった。
 子どもが不憫でならなくなったのだ。
「ごめんね、ママが悪かったの」
 わたしは献身的に子どもと接するようになっていった。
 それでも、子どもの将来をおもうと暗澹とした気持ちになることがある。
「わたしがいなくなっても、この子はひとりで生きていけるかしら……」
 わたしは子どもの寝顔をみながらつぶやくこともあった。
 夫とのあいだは気まずいままである。
「もっと大きな病院で診てもらったほうがいいんじゃないの」
 夫は勤めから帰ってくるなりいった。
 わたしは黙っていた。
「あのことはあやまるよ。なにも本心からいったことじゃないんだから……」
「いいわけなんか聞きたくないわよ」
 わたしは聞く耳をもたなかった。
「いってしまったことだから、どんなにうらまれても仕方がない」
 夫はそこで黙してから、
「でも、子どもとは関係ないことなんだ。最近では補聴器の性能がよくなって、けっこう聞こえるようになるらしいじゃないか」
 と、真剣なまなざしをしながらいった。
 わたしもおなじようなことを考えていたのだ。補聴器のことを医師に聞くと、
「その手もありますけれど、もうちょっとようすをみましょうか」
 というだけなのだ。
 わたしは医師の対応に不信感をもつようになっていた。
「オレもいっしょにいくから、つれていこうじゃないか」
 夫は語調をつよめていった。
「けっこうです。わたしひとりでゆきます」
 わたしはきっぱりといった。それでも夫はほっとした顔つきをしていた。
 わたしが子どもをつれて総合病院をおとずれたのは、その翌日のことである。
「ほんとうに聞こえない子どもさんはまれなんですよ。おたくのお子さんは聞こえないんじゃないんです。聞く力がよわいだけなんです」
 診察にあたった医師はわたしが予想もしていなかったことをいった。
「それではウチの子は聞こえるようになるのですか」
 わたしは早口でいった。
「ええ、補聴器をつかえばかなり聞こえるようになります」
「先生、ぜひおねがいします」
 わたしはことばをふるわせながら頭をさげた。
 すこし間をおいて補聴器を埋め込む作業がおこなわれた。
「ちょっと痛いけれどガマンしてね」
 医師はそういいながら作業にとりかかる。そのようすをわたしは固唾をのみながら見守っている。
 ギャーという悲鳴が子どもの口から発せられた。わたしは身をかたくした。だが、それも一瞬のことであった。しばらくすると、子どもは不思議そうな顔つきをしてまばたきをはじめている。わたしは食い入るようにみつめた。
「聞こえているんですよ」
 医師が笑顔を浮かべながらいった。
 わたしは診療台のもとへ駆け寄って、わが子を抱きあげた。
 子どもは頭をあげて視線をうえのほうにむけている。その姿は天使と呼ぶにふさわしかった。
「これからはお母さんがかたりかけてやることが大事ですよ」
 医師のことばにわたしはふかくうなずいてから、
「俊クン、俊クン」
 と、呼びかけた。
 子どもはわたしのほうに顔をむけてにっこりと笑った。
 わたしは涙を浮かべながらわが子を抱きしめた。
(了)


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蓼食う虫

 薬局チェーンで働いている綾子は薬剤師と店長をかねている。それだけにやりがいのある仕事であるが、ひとつ難点は勤務時間が不規則なことである。
「帰り際になって、お客さんが立て込んでしまって‥‥」
 綾子は帰ってくるなり、夫の公平にいった。
共働きのふたりは子どもを託児所へあずけている。
「大丈夫だよ、早めに切り上げたから」
 公平はこともなげにいった。
公平は中学校で図工の教師をしているので、勤務時間はわりあい正確な方である。そんなことで、子どもの送り迎えはもっぱら公平に頼っている。
そんな公平がめずらしく、
「あしたは放課後に絵画教室の指導があって、すこし遅くなるかもしれないんだけれど‥‥」
と、綾子の都合を打診した。
「なんとかやりくりして、わたしが迎えにいきますから、ゆっくりおしえてあげて‥‥」
綾子は気軽にこたえた。
それができなくなって、公平に援助を求めたのだ。

「きょうはわたしが夕飯の支度をします、約束を破ったバツとして」
綾子が台所に立とうとすると、
「おでんの材料を買ってきたので、ボクがやるよ。真弓ちゃんと遊んであげたら」
といって、公平が台所に立った。
「わたし、あなたと結婚してよかったわ」
 綾子が子どもをみつめながらいった。
「ボクもいまの生活に満足しているよ」
 公平がこたえた。
 ふたりは再婚同士である。

綾子はベビーベッドからわが子を抱きあげた。生後八ヶ月がすぎて、体重も十キロをこえている。「真弓ちゃん」と、あやすと、子どもは生えたばかりの二本の歯を出してニッコリと微笑む。綾子はこどもをもったよろこびをかみしめる。
「オレを頼りにしないでくれよ」
 前夫の声が聞こえてくる。
「子どもを育てるのに男も女もないのよ、いまは‥‥」
 綾子は感情的な声をあげた。
「そりゃ建前だよ。オレは絶対にゴメンだね」
 男ははげしく首をふった。
「せっかく子どもができたというのに‥‥。それじゃどうしろというの」
「自分で考えるんだよ」
「わたしに仕事をやめろというの」
「家庭を守って、子どもを育てるのは女の役目じゃないか」
「わたしは絶対に仕事はやめませんからね」
「オレには関係がない。自分のことは自分で決めるんだな」
「ひどい人だとはわかっていたけれど、ここまでひどいとは‥‥」
綾子は屈辱感に唇をふるわせた。

綾子は前夫とは二年間生活をともにした。
「三億円の仕事を取ったぞ」
 前夫は帰ってくるなり、得意げにいった。
ふたりが所帯をもったときには、前夫はコンピータの保守と管理の会社を立ち上げたばかりであった。
「カネの手当てがついたから、販売にも乗り出すよ。儲けがちがうからな」
綾子はそんな前夫をたのもしくおもっていた。
「決断力が大事よね」
「そうさ、商売は先見の明と決断力だよ」
「先が楽しみだわ」
「まあ、五年先をみていてくれよ」
と、前夫は胸をはった。
そのことばどおり、前夫の会社は成長をつづけている。

「なんだ、まだ食事の支度ができてないのか」
 たまに早く帰宅した前夫は綾子の顔をみるなりいった。
 結婚して半年あとのことである。
「わたしも帰ってきたばかりじゃないの」
「だから、仕事をやめろといっているじゃないか」
「あなたも仕事が大事なら、わたしも大事なのよ」
 言い争いがはじまったのは、そのころからである。
「どうして、黙ってチャンネルをまわすのよ」
「ドラマなんかちっとも面白くないじゃないか」
「じゃ、その時代劇が面白いというの」
「演歌ばかり聴かないでよ」
「ジャズの方が上等だというのか」
言い争いは趣味の段階へエスカレートしていった。
「食事をするときは貧乏ゆすりはしないで‥‥」
「うるさい女だな、そんなことよりも、はやく風呂をわかせよ」
「汁をすするときは音をたてないでください」
「おまえだって、玄関の靴の始末はなんだ、あれは‥‥」
 やがて、批判の矛先は生活のこまかいところにまでうつっていた。

「こんなことをしていると一緒の生活ができなくなるわ」
 綾子のことばに、
「売り言葉に買い言葉だよ、お互いにもっと大人にならないと‥‥」
と、前夫は理解のある態度を示した。
「こんどの週末はどこかに旅行しない」
綾子は仲直りの意味も含めて、一泊旅行を提案した。
「いいじゃないか、たまには息抜きに‥‥」
 快諾した前夫であったが、
「明日の旅行は中止だ、新しい仕事が入りそうなんだ」
 と、帰ってくるなりいった。
「誰かに頼めないの、電話だってあるじゃないの」
「オレのいっていることがなんで素直に聞けないんだよ」
「場合によりますよ、それは‥‥」
 また、不毛な言い争いがはじまった。
それは一年半がすぎてもおさまりそうにない。そんなときに綾子は妊娠していることがわかったのだ。
 不安が脳裏をよぎった。半面で淡い期待もあった。
「子どもが生まれれば、変わるかもしれないわ」
 綾子はひとりつぶやいた。
だが、その願いはかなく消え去った。綾子が前夫に離婚届を突きつけたのは、中絶手術をしたあとのことである。

「なにを考えているの、食事にしよう」
夫のことばに綾子ははっとしてわれにかえった。
「ああ、どうもありがとう」
 綾子は子どもをベビーベッドにもどして、食卓に坐った。
「ありがたいわ、お膳立てしてもらえるなんて‥‥」
「そんなことは気にならないよ」
 綾子はちょっと黙していたが、
「こんないい旦那さんとどうして別れたのかしら、まえの奥さんは‥‥」
 と、公平の顔をみながらいった。
「気に入らなかったみたいだよ」
「ねえ、わたし気にしないから、どんな人だったかおしえてくれない」
綾子がそういうと、
「あんたとおなじように気のつよいひとだったよ」
と、公平はあっさりといった。
「それなのにどうして、わたしと結婚したの」
「ぼくは気のつよい人が好きなんだよ、性格が優柔不断だから‥‥」
「でも、結婚すれば、また苦労をするかもしれないじゃない」
「いや、あんたはちがう。最初にあったときからボクはそう信じていたよ」
 公平は綾子をみつめた。

「あれ、この絵は‥‥」
 綾子はそうつぶやいて一枚のチラシに目をやった。子どもが無心に遊んでいるところが描かれているのだ。
離婚して一年あまりが経過していた。ふだんは仕事に打ち込んでいるので、よけいなことを考える暇がなかった。だが、休みの日にひとりでいると、ふと、むなしさにおそわれることがある。綾子はそんなときにはちかくの図書館にでかけることにしていた。その日も図書館に出かけると、たまたま図書館の一室で公平が個展をひらいていたのだ。
綾子はチラシのなかの絵に誘われるようにして、会場に足を踏み入れた。
「よろしかったら、こちらにお名前とご住所を」
と、受付の男がいった。

綾子は男と顔をあわせた。この人が作者にちがいない、と綾子は直感で判断した。
会場には、十五点ばかりの作品が展示されていたが、いずれも子どもが無心に遊んでいる情景が描かれている。
「だいぶ、熱心にごらんいただいて恐縮です」
公平が綾子のもとへやってきた。
「久しぶりに心がなごみました」
綾子は本心をうちあけた。
「‥‥」
「できましたら、このうちの一点でも、二点でも、買いたいのですけれど‥‥」
「おカネをいただくような作品ではありません。よろしかったら、好きなものをお持ちください、個展もきょうでおわりですから」
公平は綾子の好む作品を二点えり分けてくれた。
これがきっかけとなってふたりはつきあうようになった。

「わたしはあなたの絵でどのくらい癒されたかわかりませんよ」
 綾子が口をひらいた。
「ボクもあんたから手紙をもらったときはうれしかったよ」
「だって、おカネを払うといっても受け取らないんですもの」
「ボクはあんたにもらってもらえるだけでうれしかったんだよ」
「前の奥さんは絵に関心をもってくれなかったの」
「嫌いだったみたい。ボクはつよい子どもは描かないから‥‥」
「それでいいのよ、あなたの絵を見るとほっとするけれど、そこがわからなかったのね」
「男はつよくなければならないというのが信条だったからね」
「よく責められたのね」
「そうだね、あなたが判断することです。男らしくないわね。優柔不断な人ね。男に二言はないのよ。それから‥‥。いや、もうよそう」
「それで堪忍袋の緒が切れたのね」
「そんなこともないけれど、自由を束縛されたくなかったからね」
公平のことばには実感がこもっていた。

「そうだ、忘れていたけれど、画集を出してくれるそうだよ、出版社から」
公平が話題をかえた。
「それはよかったわ」
 綾子はよろこびの声をあげた。
「ボクの絵には子どもたちが忘れてしまった表情があらわれているっていうんだよ」
「まちがいがないわ、わたしの見方とおなじですよ」
 綾子はそういってしばらく黙していたが、
「ねえ、あなた、学校をやめて絵の道に専念したら」
 と、公平の顔色をうかがいながらいった。
「メシを食っていけるかどうかわからないよ、それで‥‥」
「経済的にはなんとかなるわよ、あとはあなたの気持ちだけだわよ」
「うん、迷うな、ボクを頼りにしている生徒たちがいるからね」
 公平は額に手をやって考えた。

「あなたのいうこともわかるわよ。子どもたちは、日々規則にしばられているから、すこしでも、話し相手になってやりたいということでしょう」
「そうなんだ」
「それもわかるけれど、もっといっぱい絵を描いて、子どもたちはもっと自由に生きられるんだってことを知らせた方がもっと多くの子どもたちのためになるんじゃないかしら」
「それもそうだな」
「そんなにいそぐはなしでもないでしょうから、ゆっくり考えて決めたらどうかしら」
「そうするよ」
「あらあら、せっかくのおでんがさめてしまったわ」
「あたためなおしてこようか」
 公平が立ちあがろうとした。
「いいわよ、ふたりで食べればさめていても、おいしいわよ」
「そうか、それでいいか」
ふたりは同時に箸を出した。
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メイク

――この娘はこれで社会復帰ができる。
 榎本道子はそれまでの体験からそう判断した。
「いいわよ、あなたにぴったりよ、このメイクは‥‥」
 道子は鏡のまえの皆川恵子をみながらいった。
「鏡をみていると、元気がわいてきます」
恵子は別人のような声でこたえた。
「それじゃ今日もしっかりと仕事をたのむわよ」
 道子は恵子を職場に送り出した。

恵子は二年半あまり自宅に閉じこもっていた。交通事故で顔に負傷をおったのがきっかけである。もともと内気な性格の彼女にとって、顔に受けた傷跡は文字どおり筆舌につくしがたいほどの苦悩だった。

「もういや!」
 恵子はそう叫ぶなり、鏡をその場に投げすてた。鏡は粉々にわれてフロアのうえに散らばった。彼女の頬には、ざっくりとやくざのような傷がのこっている。整形でかなりの部分は回復できたが、それにも限界があって、いまでも、一見して、その傷跡はわかる。恵子は自分の顔を鏡にうつすことができなくなってしまった。

 恵子は大学の卒業式の帰りに事故にあったのだ。それも自宅とはつい目と鼻の先の細い十字路で一時停止を怠った宅急便の小型トラックにはねられたのだ。
――わたしは呪われた人間なのだわ。そうでなければ、よりによって卒業式の日に交通事故なんかにあうわけがないわよ。
彼女は不運な自分を呪い、事故を起こした運転手を恨んだ。
 大手の都市銀行に就職も決まっていた。先方に事情を話したら、お客に不快な感情を与えるほどではないので、就職には問題はないとの返事をもらっていた。

「こんなみじめな顔で、お客さんのまえに出られるわけがないじゃないの」
恵子は徹底して拒否の態度をつらぬいた。
「たまには、デパートにいかない」
 母親が買い物に誘ったことがあった。
「デパートの洗面所に入って、鏡を見ろというの。ウィンドーにうつる顔をながめろというの」
 彼女はえらい剣幕で母親にあたった。
「ねえ、カウンセラーのひとに相談したらどうかしら」
 母親は友人のすすめもあって、心のケアをうけるようにすすめたのだ。だが、恵子はまったく関心を示さない。
「出かけることができないのなら、むこうからきてくれるそうだから‥‥」
「相談をすると、わたしの顔の傷が治るとでもいうの、お母さん」
 彼女はがんとして心をひらこうとはしなかった。

――人は心ではない、顔ですよ。
 恵子の心をひらかせたひとことである。
 自分の殻に閉じこもっている恵子のもとへ一通の封書が届いた。発信人をみると、みおぼえがある。小学校の六年生のときの担任であった女性教師である。開封すると、便箋の冒頭に衝撃的な一文が朱色で記されていたのだ。
 恵子は冒頭の一文を見直した。だが、すぐに視線をそらせてしまう。胸が高鳴って、そのまま視線をすえていられなのだ。彼女に心はいらなかった。必要なのは顔なのだ。それも傷のつくまえの顔なのである。

やがて、恵子はおそるおそる文面を追った。
――ながいことご無沙汰しております。あなたのことを友人の教師からうかがいました。他人事とは思えません。どうしてかというと、わたしも同じような体験をしたからです。あなたの場合は、交通事故だそうですが、わたしの場合は、自分の不注意で食用油をあびてしまったのです。てんぷらを揚げている最中のことです。
すごいケロイドがのこりました。整形手術をうけて、少しは見られるような顔になりましたけれど、それにも限界がありました。
定年まで勤めることにしていた教職も辞めました。それからは食料の買出しのほかはほとんど家のなかにこもりっきりの生活をしていました。そんな日々が一年半ほどつづきました。ときには自分で命を絶つことも考えました。
そんなわたしに転機がおとずれたのです。心よりも顔のほうが大事だということをおしえくれる救い主があらわれたのです。精神科の女医さんでした。顔に深手を負ったわたしでも、メイクによって元気になれることをおしえてくれたのです。
 美しさとは、一人ひとりの個性なのです。メイクはその個性を引き出して、その人を元気づけてくれるのです。顔に傷害を負っていても、メイクによってそれを個性にかえることができるのです。絶対にあなたに最適のメイクがあります。
 わたしは、いま人材派遣業を起こして、その経営に携わっていますが、その一方で、自分の体験を活かして、肉体に傷害を負って、社会復帰ができないでいる人たちの手助けをしております。過去に執着せずに、未来にむかって、今を生きることがいちばん大事なことです。よろしかったら、いっぺんゆっくりとお話をしませんか。すこしはお力になれるとおもいます。

 恵子はぱっと目のまえが明るくなったような衝動にかられた。 
 彼女が道子の事務所をおとずれたのは、それから五日あとのことである。
「よく来たわね」
 道子は満面に笑みをたたえて迎えてくれた。その顔はかつて道子の顔はちがっている。ケロイドのあとものこっている。だが、道子の表情はずばぬけて明るく、豊かであった。
「こんな顔になっておどろいたでしょう」
 恵子は言葉に窮して、黙したままであったが、
「わたしもおなじです」
 と、小さな声でいった。
「わたしから比べると、どうってことはないわよ。それでも心配よね」
 道子は恵子の手をとって、
「あなたもメイクで元気になれるから、大丈夫よ」
と、笑顔を浮かべながらいった。

「これはどうかしら」
 別室の化粧室でさっそくメイクがはじまった。
「どんなメイクを選ぶかはあなたの自由なのですよ。気に入ったメイクに出会うまで妥協しないことね」
 かなりの時間をかけていろいろなメイクを行っていった。
「あなたの気に入ったメイクはわかったわ。なんばんのメイクがいいか当ててみましょうか」
 道子はそういってから、
「誘導尋問になってもいけないから、お互いにあなたの好きなメイクを三つだけあげてみましょうよ」
 ふたりはさっそくメモ用紙に書いた。
「さあ、一、二、三であけてみましょう」
 ふたりは同時に歓声をあげた。ふたりとも同じ番号だったのだ。恵子にとっては何年ぶりかの歓声である。
「メイクは自分を飾るためではないの、元気づけるためにあるのよ。これだけはしっかりとおぼえておいてね」
「死んでも忘れません」
 恵子は笑顔でいった。

 恵子はそれをさかいに別人のように明るくなっていった。
「どう、来週からちょっと働いてみない」
 道子がそれとなく打診すると、
「ええ、やってみます」
 と、間髪をいれず、恵子はこたえた。
「保険会社から求人が来ているのだけれど、どうかしら」
「どこでもけっこうです」
 恵子は躊躇なくいった。

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乳房

 佐田美代子が勤めている不動産会社の会議室では、営業部の担当者があつまって、これから売りに出すマンションの販売戦略について話し合いがもたれている。
「彼女は変わったわね、まるで別人みたい」
美代子の同僚が小声でいった。
「そうね」
美代子は素っ気ない返事をした。
だが、美代子の目はその女性のもとへそそがれている。

「賃貸マンションへ入居している人たちをターゲットにすべきです。積極的に戸別訪問を展開すれば、想像したよりも、大きい効果が得られるはずです」。
 美代子と同期入社の浅井章子が胸をはって、きびきびした口調で自分の意見をのべているのだ。
「それはいいアイデアかもしれない。あの物件のちかくには、大きな賃貸マンションがあるから‥‥」
 係長の和田昇治が賛成した。
「それが念頭にあったのです」
 章子がすかさず応じた。
 美代子は章子の豹変ぶりに目をみはった。

 美代子の脳裏には、半年ほどまえのできごとが浮かんだ。
「ねえ、一緒に駅前でビラ配りをしない」
 美代子は気心のしれた章子に声をかけた。
「このまえ会議で決まったあれね、わたしは絶対にダメよ」
 美代子の会社では、私鉄沿線のターミナル駅のちかくにもマンションを建設している。そこで、マンションを販売するにあたって、この駅を利用している乗降客を対象にパンフレットを配ったり、相談にのったりしようというのだ。
「いま、会社はきびしいのよ、贅沢なんかいっていられないわよ」
「そのくらいことはわかっているわよ。でも、できないことはできないのよ」
 章子は拒否の態度をくずそうとしない。
「どうしてなの。せっかくふたりして宅建に合格したというのに‥‥」
 美代子の会社では、社員の意欲を引き出すために、宅地建物取引業主任者の資格を取得することを奨励している。会社の要請に応えて、この資格を得たのは、女性では、美代子と章子だけである。

「そとへ出なくとも、けっこう役に立っているわよ」
「そりゃ、そうだけれど、もっとお客さんとじかに接するべきよ」
 章子はしばし黙していたが、
「だって、わたしって、ねぐらだし‥‥」
「そんなことないわよ、機転がきくじゃないの」
「それよりも、決定的なことがあるのよ」
 章子はさびしそうにいった。
「それってなんなの」
 美代子がさぐりを入れた。
「いってもはじまらないことだから‥‥」
「あんた、水臭いわね、どうしてもいえないことなの」
「そんなこともないけれど‥‥」
「それじゃおしえてよ」
「ここよ」といって、章子は両手で胸元をおさえた。

「スタイルが悪いというの」
「みればわかるじゃない。ぺちゃんこなんだから」
「わたしだって、おなじようなものよ」
 美代子が自分の胸に目をむけた。
「あなたは性格的にカバーできるものがあるけれど‥‥」
「章子はないっていうの」
「ないわよ、こんなからだで人前に立てるわけがないじゃないの」
「そんなに劣等感を感じるんなら、手術でもしたら」
 章子の目がかがやいた。
「ウソよ、そんなこと‥‥」
 美代子が否定した。

「一週間ほど休暇をもらったので、よろしくね」
 章子が美代子につげた。
「なに、ハワイに婚前旅行でも‥‥」
「残念でした。郷里に帰って親孝行です」
章子は明るい声でいった。
「あれ、あなた変わったわね」
美代子はおどろきの声をあげた。一週間あとに出社した章子は別人のようである。
美代子は胸のふくらんだ章子のスーツ姿をじっとみつめながら、
「あんた、モデルさんみたいよ」
と、真顔でいった。
章子は笑いながらうなずいた。
「もしかして、わたしがあんなことをいったからかしら」
「そうじゃないの。まえから手術しようかとおもっていたんだけれど、決心がつかなかっただけなの」
「それがわたしのひとことで‥‥」
「そう、感謝しているわ」
 章子が右手を出して握手をもとめた。

「戸別訪問をして、ただパンフレットをわたすだけじゃなくて、話を引き出して、積極的に勧誘すべきです」
 販売会議はまだつづいている。会議をリードしているのは章子である。
「そうはいっても、みんなそれだけの知識があるわけではないから‥‥」
 美代子が疑問のことばをなげかけた。
「そこはわたしたちが先頭に立って、指導しなければならないのです。わたしたちが真剣になれば、後輩の人たちだってついてきます」
 美代子は黙するしかなかった。
「ここは先輩たちの腕のみせどころだ。女性方では、浅井クンと佐田クンにがんばってもらうことになるね」
 係長の和田が章子と美代子のもとへ視線をむけながらいった。
これまでは、名前を呼ばれるにしても、視線をむけられるにしても、いつも、美代子のほうが先であった。それがこのごろでは逆転している。
「できるかぎりのことはします」
 章子が宣言をした。
 美代子は章子の姿に見入った。からだ全体が活気にみちている。胸のふくらみがそれを象徴しているようにおもえてくる。

「いまから、成績優秀者を発表します」
会議がおわると、その月の販売成績の優秀な社員が発表された。
「第一位、浅井章子」
 章子の名前がつげられた。
「これで三ヶ月連続よね」
 同僚のひとりがささやいた。
 ついで、男性社員の名前がつづけてよみあげられた。だが、常連であった美代子の名前はつげられることはなかった。
 懇親会にうつった。そこでの主役も章子であった。
「浅井さんと一緒にいかせてくださいよ」
 若い男性社員から、セールスに同行したいという声があがった。
「今月はキミのおかげで助かったよ」
 社長からもねぎらいのことばがかけられる。
 それよりも、美代子の目をひいたのは係長の和田との親密ぶりである。
 額を寄せあって、なにやら密談をしている。
「このごろ、あのふたりおかしいんじゃないの」
 同僚からそんな声があがる。
「ふたりとも仕事の鬼じゃないの。仕事のはなしよ」
 美代子はそううけながしたが、内心おだやかではなかった。

 美代子はひさしぶりに係長の和田と夕食をともにしている。誘ったのは美代子の方だった。
「元気がないじゃないか」
 席につくなり、和田が口をひらいた。
「迷っていることがあるのです」
「どんなことだい」
「笑われるといけないから、いわないことにするわ」
「そこまでいって、卑怯だぞ」
 和田が語気をつよめていった。
「それじゃいうわよ、わたし手術しようとおもうの」
「どこか悪いのかい」
「悪くないわ、ここよ、手術するところは‥‥」
 美代子は両手を胸にそえた。
「ええ、」と、いっただけで和田は黙した。

「どうして、そんなことを」
 和田が口をひらいた。
「劣等感から抜け出したいのよ」
「浅井クンのまねをしようというのか、キミらしくないな」
「だって、章子は別人のようになったじゃないの。わたしだって‥‥」
「いまのキミでなにが不満なんだい」
「気力がわかないの。このごろ成績も悪いしね」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」
「そりゃ気になるわよ」
「たしかに、この何ヶ月間は目立った成果はあげていないけれど、ながい年月のうちにはそんなこともあるよ」
「それにくらべて、章子は‥‥」
「浅井クンは浅井クンだよ。オレはいまのキミでいいとおもうよ。部下にやらせることも必要だよ。課員に対する信頼はオレよりもずっとうえじゃないか」
「そんなこともないわよ」
美代子は手をよこにふりながらいった。

「それにしても、章子と親しそうにはなしをしているじゃない」
 美代子が和田の顔色をうかがいながらいった。
「キミ、勘違いしているんじゃないか。オレだって立場があるんだよ。成績を伸ばしている課員がいれば、激励をするよ、ただそれだけのことだよ」
「そうかしら、ふたりはおかしいってうわさも出ているのよ」
「どんなにうわさされようとも、びくともしないよ。オレは浅井クンを女性として意識したことは一度もないんだから」
「それならいいけれど‥‥」
「なんだ、やきもちをやいているのか。結婚相手はキミをおいてほかにいるわけがないじゃないか」
「‥‥」
「それよりも、おっぱいどうするの」
 和田が茶目っ気を出して聞いた。

「どうしようかしら」
 美代子が和田をみつめた。
「やめた方がいいよ、ファッションモデルになるんじゃないんだろう」
「ふざけないでください」
「冗談だよ、でも、なにも親からもらったからだに傷をつけることはないよ」
美代子の脳裏には母親の姿が浮かんだ。
母と一緒に風呂に入ったときの記憶がよみがえってくる。美代子と瓜二つの体型をしている。それでいて、母は三人もの子どもを生んで育てた。乳房のことなぞ聞いたおぼえがない。
「やっぱり、あなたのいうとおりにしようかしら」
「それがいいよ」
美代子は和田と乾杯した。


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